「やさしさ」って何だろう。という問いかけはいつの時代もありつづける普遍的な問だ。一般的に女性が男性に求めるものの代表格として「やさしい人」と答えるというのが昔からの定説だが、その言葉にいまもなお翻弄され続けている。男性が女性に求めるやさしさは、包み込んでくれるとか気遣いができるという点になり、一方で女性が男性に求めるやさしさも包容力やレディファーストができる点ではどちらにせよ本質的には同じことを言っているのかもしれない。
そんなやさしさは次第にフェミニズムの台頭、浸透によりレディファーストも気遣いもすこしずつ薄れてきたように思う。それと同じように、孤独への寄り添いがやさしさに含まれてきた。孤独や一人というさびしさを抱える人に、一人じゃないよ、と声をかけること、それがやさしさの一つとして数えられるようになると、社会は急速にメンタルヘルスへの対応に追われ始める。パワハラやセクハラがきちんと糾弾されるようになり、センシティブなニュースが流れると、かならず報道機関はホットラインも同時に紹介しなければならなくなった。悩んでいる人がいたら、迷わず相談してほしい。一人で抱え込まないで、というメッセージは政府主導ですら動いているほど重要視されている。
ではもう少し「やさしさ」について考えるとき、今どんなやさしさが社会には満たされていて、どんなやさしさは不足しているのか、そしてどういったやさしさが求められているのか、を分けて考えていくことが必要になる。もうざっくりした「やさしさ」では語ることはできなくなった。
私はずっとこの「やさしさ」について考えている気がする。そしてこのブログでも度々そのことについて書いている。本当のやさしさってなんだろうという問いかけではなく、いま社会で見過ごされているやさしさってなんだろうという問い立てで真面目に考えている。
最近はゴミ箱が町から消えた。コンビニの前にあったのに、いつの間にか店内に設置されるようになり、駅からはゴミ箱が消えたところもある。テロ対策だったり一部の人の家庭ごみの持ち込みといった迷惑行為のせいで善意と信頼で成り立っていたサービスが成り立たなくなった様子は寂しい。一部の人が迷惑をかけるから全員が損してでもその人たちを得させてはならない、という発想は致し方ない部分と自己中心的な部分が入り混じる。意地悪ベンチが続々と発生しているのも、ボール遊びができない公園が増えるのも、そこには寛容が薄れている。だって嫌な思いを私はしているんだから、と度々繰り返される”正論”はいつまでたっても強いままだ。そこに「まあそうはいっても」の入る隙間はない。その隙間は作ってもらうものでこちらから働きかけは難しい。その隙間を作れないのはどうしてだろう。そんなことを考える。
個人的に2019年のaurora arkツアー以来二度目の単独公演観賞となる今回も、前回同様京セラドームでの開催となった。今回ツアーに引っ提げて持ってきたニューアルバム「Iris」は5年ぶりのアルバムということもあり、この5年間の集大成的な仕上がりになっており、ここ5年のベストアルバムと言っても過言でもないだろう。アルバムの一曲目「Sleep Walking Orchestra」からライブもスタートする。彼らの原点でもあるサザンロックの風合いを色濃く反映しながら、どうにも歌いづらい上下乱高下の激しいAメロを通過すると、サビでのコーラスが高揚感をかきたてる。ただ、高揚感と言っても、前々作「Butterflies」や「aurora arc」のようなエレクトロサウンドでいざなうものではない。むしろ今作はギターロックを存分に楽しんでいる印象だ。特にこのライブ最後に演奏された「窓の中から」はとくにそれが感じられる。この日増川が着ていたソニックユースのTシャツもそうだし、彼らのルーツをひしひしと感じられる、原点回帰的な作品だ。
もちろん今回のニューアルバム「Iris」もできる限り聴き込んでライブに臨んでいるが、やはり過去曲をなにやってくれるのかは最大の関心事だ。まだほとんど彼らのライブを見たことがない私にとっては、聴いてみたい、演奏して欲しい曲はたくさんある。今回は「飴玉の唄」「メーデー」「車輪の唄」「レム」「虹を待つ人」「記念撮影」「Aurora」「天体観測」「You were here」を披露した。アルバム「orbital period」を多感な高校生の時に聴き込んだから飴玉の唄には大変深い思い入れがあり心が震えたし、やっぱりレムはちょっと別格で痺れた。シンプルに大好きなメーデーもカッコよかったし、前回も聴いた車輪の唄は何回聴いても泣いちゃうし、あまりに歌詞が一語一句完璧すぎて怖いくらい。全てのフレーズがキラーワードだし表現が示唆的でフリが効いていて、ほんとあんな完全無欠で隅から隅まで完璧な無駄のない歌詞はそうそう見当たらない。
BUMP OF CHICKENはやさしいバンドですか、と尋ねた時、そうだと答える人は多いと思う。そのやさしさの正体は人それぞれの視点によるとは思うが、やはり大きなポイントとして、ずっと孤独を肯定して歌ってきたところにあると思う。誰も俺なんか理解してくれないんだ、という自暴自棄にも近い諦めや嘆きをそっと包み込むようなあたたかさとやさしさがこのバンドの最大の武器だ。今回の過去曲の選定も、レムと飴玉の唄とメーデーというところからこのバンドが歌ってきたことを如実に表している。
ただ、孤独に寄り添うやさしさだけが彼らの魅力ではないことも明らかだ。先に挙げたその類のやさしさを近年私たちは需要視し、アーティスト達は歌い続け、社会全体が孤独な人たちで覆われることにならないようカサポートしようと動いている。音楽がインターネット上で一人で制作しアップロードできる時代になると、より孤独はテーマの一つとして重要視して歌われるようになった。鬱屈した感情を歌うボカロ文化はAdoにしろずっと真夜中でいいのに。にしろ米津玄師(ハチ)にしろ、ジャンル自体が孤独を肯定するようなスタンスだったため、いまそのジャンルが日本の音楽業界の中心を担うということは鬱屈した感情を認め合うことのできる土壌が整い始めたということだ。
そんな孤独感を歌うアーティストとは大雑把に言ってしまえばBUMP OF CHICKENが最たる例のバンドだろう。それは今でも大きなスタンスは変わっていないはずだ。しかし、今作のアルバムの楽曲を通して聴いても、以前よりも歌詞は抽象性を増し、断片的な歌詞が増えている。歌詞とタイトルが一致しないという人も増えてきたはずだ。人生のステージ、バンドとしてのステージが変われば歌う内容も表現方法も変わるためその変化は特に驚きもないが、だからこそ一層過去曲を披露するとき、その歌詞の具体性とストーリー性に胸を打たれる。そしてその中でも「なないろ」や「Gravity」のような情景が浮かびやすい楽曲が際立ってドラマティックに聴こえる。残念ながらこの日の公演ではGravityは披露されなかったが、なないろの演奏は素晴らしく美しいものだった。
長々と書いてきたが、私なりのバンプのやさしさについて書いてみたいと思う。特に今回披露された過去曲を中心に見てみると、彼らに一貫したスタンスが見えてくる。飴玉の唄は自問自答しながら疑心暗鬼になる歌だが、相手に期待するあまりその落差に傷つくことを恐れている。
聞けない事 言えない事 上手に話せなくて泣く
さあゆっくり下手な話をしよう
メーデーでは
誰もが違う生き物 他人同士だから
寂しさを知った時はぬくもりに気づけるんだ
勇気はあるだろうか一度心覗いたら
君が隠した痛みひとつ残らず知ってしまうよ
と歌っているように、他人は基本的には全く別の生き物で分かり合えたり分ちあうことはできないという。星野源の「ばらばら」にも通ずる考え方で、私たちが他者と関りを持つときの最低限わきまえておくべき考えのようにも思う。そのうえでメーデーは知ってしまうことへの覚悟を問いただす。それってすごく”やさしい”ような気がする。誰かに寄り添うって簡単に言うけど、寄り添うことの重みを理解しないまま発言している人は多い。寄り添うことは他人の人生に合流することで、それは「君が隠した痛みをひとつのこらず知ってしまう」ことでもある。それを臆病だとか弱気という風には捉えずに、正しく恐れ正しく距離をとり、そして正しく寄り添うことへの覚悟の現れだと捉えている。その流れで披露したレムは前作「Jupiter」の成功を経ての作品で、非常に鋭利な言葉と皮肉、嫌味がこめられている私的な作品ではあるが、その最後に
走り疲れたアンタと改めて話がしたい
心から話してみたい
と対話を希望する。散々に嫌味を言った後で、それでも最後は対話を求める姿勢は後の「話がしたいよ」などといった作品にもずっと根底に流れ続けている。
今この時代、ライフハックやコスパ、タイパなんて言葉が流行し、メリットとデメリットの天秤にかけ取捨選択することが増えてきている。無駄なことに時間を費やさないように物事の本質に早く気づき、それが自分にとって必要かをすぐに判断する。もしかしたら今の社会で満たされつつあるやさしさは、そういう天秤でかけられたうえで残った価値のあるとされるものや人のみが享受できるものなのかもしれない。ホームレスがいるならとりあえずベンチは長時間座れないようにしてやろう、という発想は、そのおかげで地域の治安は守れているというやさしさの裏で必要でないと判断された人たちへのやさしさをないがしろにしている。
BUMPは対話を望んでいる。しかもそれは下手で構わない。時間がかかってかまわない。遠回りでもいい。ファンとの交流をじっくり丁寧に行っているメンバーを見ていても、その姿勢は一貫しているように感じる。わからないことをわからないままにすること、違うままでいること、それを許すこと。だから毎回時間をかけて一人一人と対話しようとする。それは本当に社会が今必要なやさしさの正体なのではないだろうか。
今回のライブをみて、とてつもなくヒリヒリする「レム」からファンとの邂逅を賛美する「窓の中から」、アンコールではその対となる邂逅の後のわびしさをかみしめる「you were here」まで、彼らはいつだってこちらに向かっている。ラフメイカーほど強引ではなく、じっと待ちながらかつ積極的に交わろうとする。いろんな事情で生きづらい人がいて、悩んでいる人がいる。それをまとめて「がんばれ」と励ます無神経さはなく、「俺も孤独だし生きづらいぜ」と共鳴するだけにとどまらない。その一歩先を歌っている。自分が選んだ人だけにやさしくしている人たちの浮ついた「人にやさしくなろう」はまったく響かない。そのやさしさはもう十分にある。博愛主義ではない、相互理解と容認の社会はまだまだ完成されていないからこそ、BUMP OF CHICKENの姿勢を見習いたいと感じる。
うまく手は繋げない それでも笑う 同じ虹を待っている