2025年3月、Xにてある女性が痴漢被害にあったことを告発した。音楽ライブ中でのできごとだったそうだ。意を決して声を上げスタッフを呼び、対処してもらおうとしたのだが、そのライブの運営をおこなっていたキョードー大阪のスタッフは、被害女性に対して高圧的な態度をとったほか、加害男性を擁護する姿勢まで見せたという。
キョードー大阪はその後その一連のトラブルを事実確認の結果、事実であると認められなかったと報告した。つまりは女性の虚偽であるとした。そして当該女性はよくもわるくも大きな賛否を呼んだ結果、アカウントを削除した。キョードー大阪はそれを踏まえこの件を終了とした。この一連のトラブルが事実だったかどうかは私たちに確認する術はないが、そもそも被害女性に寄り添う気持ちすらない人たちが言い続ける「事実かどうかわからないからお前の言うことは信用ならない」という意見に全く容認することはできない。
トラブルの参考記事(https://news.yahoo.co.jp/articles/34eb7c55fa65f0b6143a50b0908e8b1974736b4d)
事実かどうかはわからないならどちらにも加担してはならない、という平等を装った冷淡主義は、この世の中には誰かの被害申告をまずは受け止めるというプロセスがあることを忘れている、あるいは忘れようとしている。事実かどうかはわからないし本人たちは否定している不倫報道も「不愉快だ」と叩くし、加害側の弁明も一方的に信じ「やっぱり彼は悪くなかった」と強く願う。
こういうことに言及するたび私も何度も言われ続ける「推定無罪の法則」は、裁判とは関係のない場所でも軽々と使用され、口を封じる一手として悪用されている。見ていないなら発言するな、という”正しい”意見は、その”正しさ”に酔うあまり、道徳や倫理といったあいまいで思い悩まなければならない複雑なプロセスを打ち消せてしまう。悩まなくていい、間違えなくていい、という安心感を得られる一方で、その安易さはヤバいですよ、ともくぎを刺していかなければならない。そうやって安心な立場、どう転んでも間違いのないスタンスばかりを選ぶ人間には世の中を良くも悪くも変えることはできない。
痴漢行為を容認する人はまずいない。それは犯罪行為だからだ。ただ、「これくらいを痴漢とするな」「こんなのを痴漢だと騒げばこっちも怖くて何もできなくなる」と、加害側が一方的に痴漢の範囲を狭めようとしてくる人たちはたくさんいる。当事者の意見をないがしろにし、俺らの意見を優先しろ、とすごんでくる光景はいつ見てもグロテスクで、同じ同性として恥ずかしく申し訳のない気持ちでいっぱいになる。
当然、痴漢行為を断じて許さない姿勢を見せるアーティストもいる。近年特にその傾向は増加している。
一つの例としてヤバTことヤバイTシャツ屋さんというバンドを挙げる。彼らは「痴漢行為はダメです」という警告文のみならず、具体的なアクションを提示した。それは赤いSOS画面をステージ側に提示したらすぐに対応するというもの。なかなか声を出すことができない人のために、加害側にバレることなくSOSを提示できることはとてもよいことだ。そしてもうひとつ素晴らしいなと感じたことは、「演奏を止めさせてしまうことを申し訳ないと思う必要はない」とアーティスト自らが発信したことだ。被害者はその性質上、他のライブを楽しんでいるお客さんに迷惑をかけてしまう、と考えてしまう。そのマインドをまずちゃんと緩和してあげようという姿勢が大切だ。アーティスト自らがそう発信すれば、(たいていの)ファンだって理解する。みんなで作り上げるライブだという認識をもつきっかけにもなる。
そういったアーティスト自ら発信していく取り組みはとても有効で、その動きはどんどん広がっている。
しかし一方で、少し雑な発信もある。
清水温泉が企画している音楽フェス、OTODAMAでは、Xで観測した中では2019年ごろから痴漢撲滅啓蒙のアナウンスが流れている。その文面は「痴漢した奴は数年後に死にます!!」という文言だ。
OTODAMAにはかつて2度参加したことあるが、この警告文は自分の記憶には存在しておらず、その前後にどんな文章が載っていたか覚えていないが、この「痴漢した奴数年後死ぬ」には中途半端な警告とやんわりとしたスベったユーモアが伝わってくる。
そもそもその警告は少しでも加害側に思いとどまらせること、あるいは被害にもしあってしまったときにどうしたらいいかを伝えたりフェスが全面的にサポートするという強いメッセージを出すことで告発しやすい環境をつくるためにある。
では「痴漢した奴は数年後死ぬ」は加害側にすこしでも思いとどまらせることはできているのだろうか。当たり前だが痴漢した人は数年後に死ぬわけではない。そしてそれを見て被害側が告発しようという気持ちになるかも不明だ。確かにフェスが痴漢行為を絶対に許していないことは伝わるが、この妙なユーモアが逆に怖くなる。
だって痴漢は全然笑えないからだ。まったくもってそんなユーモアで笑えるものではない。その人の心に深い傷を与え、場合によっては社会生活を困難にさせてしまったり、二度とフェスにいけないようなトラウマを与えてしまう場合がある。大好きだったOTODAMAも、痴漢被害にあった後はその文字を見るだけで辛い気持ちになったり気持ちが悪くなったりするかもしれない。
そういうことを踏まえて考えたとき、果たして警告文を作る会議の際に「痴漢した奴は数年後死ぬ」というメッセージでGOサインをだせるのだろうか。そんなユーモアでいいのだろうか。それはまだまだ痴漢が”性犯罪”というイメージをもたず、”いたずら”程度にしかとらえていない人の発想ではないだろうか。男性たちが集まり、男性たちが痴漢警告のメッセージを考え、そしてそれらは男性たちによってユーモアで解釈され、それをみた男性たちは笑いながら「痴漢した奴数年後死ぬwwww」と茶化す。それで本当に痴漢被害の深刻さと向き合えるのだろうか。
痴漢はゲームじゃないしいたずらでもない。そんなことは分かっていると口をそろえていうのだろうが、そういう甘さがこういった文言からにじみ出る。数年後死ぬ、ではなくてどんな刑罰に処されるのか。道徳上どれほど間違ったことをしていて、恥ずべき事なのか。どれだけの人に迷惑をかけ、被害者にどれほどの深い傷を負わせるのか、それをきちんと伝えることが必要なのではないだろうか。フェスという場でそんな深刻なメッセージは出しにくい、ともし判断するのなら、それは被害者を「空気を悪くする一因」と認識していることと地続きであり、フェスを快適な場にするためには水をどんどん差していかなければならない。その水を差すような警告文を出す必要があるのは加害者のせいであるという空気を醸成することも必要で、それはまぎれもなく私たち参加者の努めである。
強い言葉で非難すれば何かを言った気になるし、自分のスタンスを表明した気にもなるが、大切なのはヤバTのような具体的なアクションだ。
また、痴漢行為はあくまでも性犯罪の一つに過ぎない。それを糾弾すれば女性の味方にたっていると思いこむことも他の犯罪やもっと根本的な女性の問題について見落とす要因にもつながる。痴漢をなくそう!という運動は大切だしどんどん進めていくべきだと思うが、そればかり言っているだけでヤバTのような多角的な視点からのフォローや男性による女性蔑視、性対象、性消費の問題について考えないことは同時に大きな問題を解消できないままではないだろうか。