初耳学での林修のスタンス

テレビ番組で、林修があの特徴的な唇を噛み締めている。それを雛壇のタレントたちが恍惚な表情で眺めている。あれこそが、有能な人間を集団で叩きのめした時の満足感であり達成感である、と言わんばかりのカタルシスが溢れている。

知識豊富な彼をなんとかして「知らない」「わからない」から「まいった」まで言わせるべく始まったあの番組は、あの手この手で彼を攻め立てる。番組初期は確かに林修も唸るような事実や知識が問われる問題も多かったが、今は美容に関することや、出題者次第だろってくらいに誰もわからないような問題が目立ってきた。彼がイチアン(イチローのアンチのこと)であることは個人的に許し難いが、流石に不憫にも思えてくる。


負けを認めない私たち

マウントを取ってくる相手に対して「はいはい」で済ませばいいものを、なぜか私達は張り合いたくなる。確かに知識では劣ってるくせに、半ば無茶苦茶な知識で、むしろ強引な勝ちどころを探そうとする。

音楽ファン同士にもよくこの光景は存在する。いわゆる古参と呼ばれる人たちが、新規ファンに対してマウントを取ってくるのだ。これは常識でしょ、ファンなのにそんなことも知らないの?と、いかにもウザったく、文面だけで口を尖らせ手を前に出しながら見下してきてるのがわかる。



しかし新規も黙ってない。「知識量だけがファンの愛の深さなんですか?」と返す。主題をずらし、「愛とは何か」という普遍的で答えのない巧妙かつ姑息な手段にでるのだ。

まるでそれで五分五分になったかのようなしたり顔で反撃する。時には数的優位を利用した”数の暴力”で、この”反論になっていない反論”を正当化する。それはまるで、林修を後ろからニタニタ笑いながらジャッジする大政絢のようだ。

古参が正しいとも新規が悪いとも言うつもりはないが、負けは負けで認めるのも一つだろう。負けなんかないんだみんながオンリーワンなんだ、のスローガンの弊害はもう十分私達は痛感してきたはずだ。全てを勝ち負けに晒す必要はないが、そうやって人は自己承認を高め、気持ちの拠り所を生み出しているのだ。


あえて負ける林修

ただ、古参と林修を同じにしてはいけない。彼はあえて道化を演じており、バカなタレントには優しい漢字問題を出題するのに、自分が回答者のときは嫌がらせかというほどに難しい漢字問題をスタッフに出題されても文句一つ言わない。タレントだからだ。仕事だからだ。本来なら「勝負というのはお互い同じレベルの問題で競いあわないと正しい結果が生まれない!」とクレームを入れてもおかしくない。

でもそれはしない。だってそれはナンセンスだと彼は理解しているからだ。番組が成立しないからだ。
当たり前の話に思うかもしれないが、古参との違いは「わかっててマウンティングをやってるか」にある。

一方古参は仕事ではなく、むしろ自己のアイデンティティと密接に繋がっている。だから是が非でもそのプライドは誰かと比較して貶めてでも保持しなければならない。だったら新規も大政絢であるべきではない。大政絢自身も仕事だからだ。彼女が本心で林修を指差して笑いたいわけだはなく、そのポジションでの仕事を全うしているだけだ。



林修、大政絢。私達はどちらでもない。もっと肩の力を抜いて楽しめば良い。そしてマウントを取られた時は素直に負けを認めるか、ギャラを支払うのが妥当なのだ。