逃げるは恥だが役に立つ

2016年に新垣結衣と星野源のタッグで放送されたドラマだ。なんて説明は野暮だろう。”恋ダン”がブームとなり、社会現象までに至り、それまでも十分な実績と知名度を誇っていた星野源が日本を代表する国民的歌手になった瞬間でもあった。

もちろん当時のツイッターの盛り上がりもyoutubeでの踊ってみたが盛況だったことも知っているし、テレビに記事に、ありとあらゆるメディアで逃げ恥の話がされていたことを思い出す。そして、各シーンや名台詞など、未見の私でも知っているレベルで広まっていた。

なぜリアルタイムで観なかったのか、それは当時の自分のメンタルもあるし、それをおもしろいと思えるだけの余裕がなかった。いかにもつまらなさそうなラブコメ、というのは私にとって一番苦手とするジャンルであり、あの時の私は日本のラブコメに属するドラマは全てクソだと思っていたからだ。事実今でもそんなにその評価は変わっていないのだが、でも逃げ恥を見て思うのは、全てがそうとは限らないという事だ。

搾取とジェンダー

amazon primeで全てみられるので、一気に見た結果、十分に楽しめ、そしてビンジした後数日間、あのひらまさとみくりの二人の色んなシーンが頭をよぎるのだ。こうなった場合は完全に”ハマった”と公言せざるを得ない状況だ。ドラマを好きになると私は何回も何回も特定のシーンをふと思い出す。そんな人、多いかもしれないが、私もその一人だ。

私の2016年といえば、まだまだあまりに口汚くアーティストを罵っていたくらいにはモラルのかけらもないブログをやっていたころで、フェミニズムだとかジェンダーだとかそういった事柄には関心がなかった。多分あの時に逃げ恥を見て、みくりが「搾取です!」って言っていても、何も響かなかったし、そしてあの当時に新垣結衣を起用して女性の育児問題や地位、差別について切り込むことの凄さについては見逃していたに違いない。今だからこそ気付ける観点だし、野木亜紀子という作家の作家性についてようやく理解し始めたからこそ見直してわかる観点である。

MIU404もつい最近見直して、次はカルテットを見なきゃなと思うまでに日本のドラマに見る価値を見出したのは、明らかに去年、坂元裕二脚本の「大豆田とわ子と三人の元夫」を観てからだ。そして多くの人、自分が勉強になると思って読んでいるジェンダー問題について詳しいライターや専門家、教授、フェミニスト、そして複数の友人による推薦を受けたからこそ観てみたのだが、その先進性と、いい意味での裏切りが多数あり、「日本のドラマもこういうのは探せばあるんだ」と思えたからこそだ。

これだけ女性へのセクハラやパワハラ、男性の家庭参加の意識の低さなどが当たり前のように議論されるようになったからこそみくりの発言や百合の言動は当然理解できるものの、はたして2016年、日本はそこまで本腰を入れて課題に取り組んでいただろうか。だからこそみくりは「小賢しい」と自分を卑下し、百合は「だから独身なんだ」という言葉には表だって歯向かわず人知れず涙を流す。それは後年放送されるMIU404の麻生久美子演じる機動捜査隊の隊長が思わず涙するシーンとリンクする。

なにより星野源の「恋」の意味がようやく分かった。これは「恋」というタイトルではあるが、恋の歌ではないのだ。今更で申し訳ないが、本当にこのドラマを見て歌詞の解像度が上がった。2021年に星野源は「不思議」という曲をリリースしたが、その際にこう語っている。

「これまではラブソングを作るつもりじゃなくても結果的にラブソングになることが多かったんです。ですが、今回はドラマで描かれるラブストーリーを入り口にしながら、自分自身がちゃんとラブソングを書くぞという気持ちで向き合いたかったというか。この火曜ドラマの枠で斜に構えた主題歌を描くのも違うなと思ったんです。」

星野源、新曲『不思議』で“初めて”自分なりのラブソングを正面から表現

結果的に「恋」は恋の歌になったのかもしれないが、「意味なんかないさ暮らしがあるだけ/ただ腹を空かせて君の元へ帰るんだ」も「恋せずにいられないな/似た顔も虚構にも」も、それが恋であるという事と、その恋は一人であるというひらまさの独りよがりの発想がにじんでいる。そしてそれは決してひらまさとみくりのようなシスジェンダーのヘテロセクシュアル同士の「恋」だけではなく、もっと大きなモチーフを歌っていることにも気づく。2020年に「うちで踊ろう」をリリースした時に”家”ではなく”うち”にしたことで、家がない人も家に帰れない人も、自分にとってのhomeで踊ろうという包括性を含んでいたこと、20117年の「Family Song」が色んな形の家族を想定して作られていたことからも、星野源にとって包括性というテーマは芯として内在していることは明らかだ。

まとめ

と長々語ってきたが、なによりひらまさの心境もみくりの心境も、そして二人が超えなければならない課題も、全て自分なりに共感できてしまう。それが一番沁みる。モテない男の気持ちとかそういう話ではなく、もっと人として、男女として、その関係を積み上げていく過程においてないがしろにしてはいけない問題について、丁寧に描かれている。

森喜朗が「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかる」「女性っていうのは競争意識が強い」「女性の理事を増やしていく場合は、発言時間をある程度、規制をしないとなかなか終わらないので困るといっておられた。だれが言ったとは言わないが」「私どもの組織委員会にも女性は何人いたっけ? 7人くらいか。7人くらいおりますが、みんなわきまえておられて。(中略)我々は非常に役立っております」などと発言した2021年、森山みくりの訴えははたして届いていたのだろうか。

武井壮が「女は若ければ若い方がいい」と発言したことは、結果的に内田理央が演じた女性に土屋百合が「呪いね。自分で自分に呪いをかけているようなものよ。あなたが価値がないと思っているのはこの先自分が向かっていく未来ヨ。それって絶望しかないんじゃない?自分が馬鹿にしていたものに自分がなるのはつらいわよ。『かつての自分みたいに今周りは自分を馬鹿にしている』と思いながら生きていくわけでしょう。そんな恐ろしい呪いからはさっさと逃げてしまうことね。あなたがこの先美しく年を取っていきたいと思うなら、楽しく生きている年上の人と友達になるといいんじゃないのかな。あなたにとっての未来は誰かの現在であったり過去だったりするんだから」と諭したことと地続きではないのだろうか。その呪いはだれが洗脳しているのか。

1月14日に毎日放送にて放送された「NewsPicks×MBS×CBC 石井亮次のゲキ論!「恋愛」緊急事態宣言」の番組内にて、ハライチの岩井が「恋愛にそんなにガツガツしない、芸人と話したりするので十分楽しい」といった趣旨のコメントをしたときにゆうちゃみやオアシズの大久保佳代子などが「えええ」と言ったこと、その後のVTRで推し活の話題になり、岩井自身も二次元に推しがいるからという旨の発言に対し(お笑いだということは踏まえて)「は?」と理解を示さないような態度をとった大久保佳代子が映しだされていた。果たして「恋」の「恋せずにいられないな/似た顔も虚構にも/愛が生まれるのは一人から」はどう社会に届いたのだろう。

ドラマ一つ書き上げても社会は変わらない。あす世の中が変わるわけではない。特にもう飽きるほど人生を歩み、すっかり自分の人生の経験値が十分に他のひとの価値観をジャッジできるほどに立派なものだと勘違いしている大人たちにはなんにも響かないかもしれない。どれだけ多様な形の存在を知らしめても「いや、私の人生の経験上それは認められないね」と一蹴する人の多さ。自分は間違っていないと豪語出来るその鈍感さには感服するが、そうではなく、これから人生を歩む若い人たちに、決して窮屈な思いをさせたくないから、ドラマにメッセージは込められる。2016年、森山みくりの搾取や労働対価、独身でいること、出世を選ぶことのハードさをつきつけられた10代は、5年後の今にどう暮らしているのだろうか。男女のカップル、夫婦の家庭内労働の分配はようやく「男側の”参加”」や「男も”手伝う”」といった言葉がただちに指摘される段階までには来た。白鳥は運ぶわ。当たり前を変えながら。と歌うのは星野源である。そうなることを祈るし、そうなるように努力していきたい。