大学生の頃、サークルの新入生歓迎会を開いたとき、大体初めにやるのが高校時代に部活を何やっていたか当てるゲームだった。野球かサッカーなら大抵当てることができるが、バレー部やテニス部の違いはなかなか難しい。どうして野球とサッカーを当てられるのか説明しろと言われても難しいのだが、見えない線引きがあそこには存在するらしい。こうやって「え、野球部だったでしょ!」「えー卓球部なん!?意外~!」という果てしなく意味のない答え合わせで盛り上がったサークルが一番おもしろくて楽しい”良い”サークルだと認識される。この会話を何のためらいもなくできるからサークル内で女をとっかえひっかえして処理していけるのだ。

そこにわかりやすい記号がなくてもなんとなく棲み分けをしたり、仲間わけをしたりすることがある。雑多な情報から共通言語を選び出し引き出しにジャンルごとにしまう能力が我々人間には備わっている。音楽業界を見渡してみると、ひとつの事務所からやたら入浴剤みたいなにおいがする。オフィスオーガスタ。

スガシカオ(2011年に独立)、スキマスイッチ、山崎まさよし、秦基博。
彼らを並べたとき、漠然とした統一感を覚える。彼ら自身は個性豊かで唯一無二の歌声を持つ人たちばかりなのに、集まるとご覧のとおりバスクリンのにおい。彼らを聞いている人間はみんなセーターを着ていそう。事実彼らの団結力は強固で、事務所内で「福耳」というユニットも結成し、事務所の音楽フェスも開催している。歌がずば抜けてうまいというよりも歌声に個性を持ち、ただのシンガーソングライターにとどまらない雰囲気をかもしている彼らのたたずまいは、なんとなく皮肉や揶揄をとばしにくい。

オーガニックな香りをまとい、「ねぇ、音楽っていいですよね」みないた大人の風格で私たちを閉口させる。かつて「音楽って音を楽しむって書くんですよ!知ってました?」という似たようなノリをおおっぴろげにさらけ出し、こちらが悪口でもいえば非道徳だと思われかねないほどの純朴な集団「Goose House」とは違い、その姿勢に嫌味はない。他人の曲を自分たちの色に強引に染め直すGoose Houseのあくなき自己愛精神は、他人のオナニーを見させられているようで心苦しい。一方でオーガスタはあくまでオリジナルで勝負する。だからこそオーセンティックだと評価される。チープさはそこにない。

オフィスオーガスタが主催しているフェス、「AUGUSTA CAMP 2017」に所属アーティスト自ら出店しているお店は「オーガスタ食堂」、「Hata Café」、「喫茶福耳」と、どれもオーガニックでアコースティックな香りのするものばかり。山盛りポテフライとかスキマなし!ガッツリハンバーガー!みたいな肉肉しいジャンク感のあるお店はない。
そもそもオーガニックさとオーセンティックさは別物である。相関関係はあっても因果関係はない。スキマスイッチの常田がアフロにしてたからといってオーセンティックさが増すわけではない。現に今はとっくにアフロではない。日本人はアフロをかぶると無性に踊りたくなるようだがそれにも因果関係はない。単なる思い込みである。黒人は足が速いレベルの思い込みだ。

オフィスオーガスタはその相関関係をうまく利用した。彼らが本物ではないと言いたいわけではないが、必要以上に自分自身の価値を高めた。

明確な線引きはないけれど、なんとなく秦基博やスキマスイッチはオーセンティックなアーティストに分類される。テレビで何度秦基博がひまわりの約束を歌っても「商業音楽め!」みたいな非難は飛んでこない。彼らは野球かサッカーかの二択に絞るのと同じようにオーセンティックかそうでないかに限った。極端な選択だけにすれば細かな事はおざなりにされるからだ。オフィスオーガスタはそれを知っている。

つい先日、発汗でデトックスは全く効果がないことが発表された。汗をかいても毒素はこれっぽっちも排出されないらしい。そうやって「発汗=デトックス」という単なる自分の爽快感が後押しして裏付けられてきたこの方程式を化学は時に覆してくるが、「オフィスオーガスタ=オーセンティック」の方程式は誰にも覆せない。きっとTRFでも加入すれば少しは状況も変わるのだろうが、スガシカオの独立の際の「曲が生々しい形で伝わらない」という名ゼリフを残すことはあってもDJ KOOがオーガスタに所属しながら落とし穴に落ちることはない。

それなら、適度に下ネタを発信し続ける桑田佳祐や福山雅治、星野源を擁するアミューズの方が安心安全を売りにしている分、手に取りやすい。無農薬野菜より農薬野菜。聴いていて自己満足に浸れるのはオーガスタ。わたしはどうせ水で洗えば同じだと思うので(事実はどうであれ)、農薬野菜を選択する。