2013年にリリースしたミニアルバム「僕がCDを出したら」が地元大阪からジワジワと話題を集め、結果的に”四つ打ちブーム”と称されるムーブメントの火付け役となったKANA-BOON。どのメディアでも「四つ打ちとは」の解説に溢れ、その例として必ずと言っていいほど彼らの名前は率先して挙がる。それほどに彼らの影響力は凄まじく、国内フェスの盛り上がりにも大きな貢献を果たした。

奇しくも彼らと同郷でありほぼ同世代の私も、彼らの噂は聞きつけていて、タワレコなどではちらほらと推され始めていたことも当時の記憶として残っている。YouTubeにあげられた「ないものねだり」の公式ミュージックビデオはぐんぐんと再生回数を伸ばし、今では1000万回再生にまで到達している。

ちなみにこのMVには今を時めく大俳優である岸井ゆきのが出演しているが、彼女の世間的な需要(彼女の雰囲気、スタイル、顔が”トレンド”であるという意味)はこのころから作られたとも考えられる。こうしたインディーズバンド、ひいてはサブカルチャーと彼女の雰囲気の相性は良く、その界隈にいる若い男性陣からの人気は高かった。いまやサブカルの住民のみならず、国民的に愛されている俳優になった。

彼らはなにかと語られやすい、というか比較対象だったり、ここ10年の邦ロックの総括に使われたり、時にはdisの矢面に立つこともあるバンドだった。ベーシストの不倫と失踪、脱退騒動など(そして現在は熱波師に転身した)、ゴシップを騒がせる一幕もあり、なかなか本質的に語られる機会の少ないバンドだったかもしれない。

そもそも四つ打ちとは…から始めるのはもはや野暮で、それはネットの記事でもあらゆる書籍でもそれぞれの視点で解説されているので各々で読んで欲しいが、彼らが四つ打ちの創始者ではなくても、2010年代の四つ打ち文化の中心バンドであったことは揺るぎないはずだ。トライセラ、ベボベ、アジカンなどが繋いできた四つ打ちロックをより高速化させ、フェス文化との相性をより接近させた身体的な音楽でスターダムに駆け上がってきた彼らだが、そろそろ彼らについてある程度整理する時が来たのではないだろうか。

ボーカル谷口鮪の休養もあり、バンドはかつての勢いを持っているとはいいがたく、世間の音楽的な傾向も、SuchmosからKing Gnu、そしてYOASOBIやAdoといったボカロ文化へと移行していく中で、インディーズのギターロックバンドの居場所は(ご時世的なものもあり)激減した。もちろん、いまでもロックフェスは人気が高く、その中で彼らの地位はかっこたるものになっているが、シーン全体でみると、相当ガラパゴスが進んでいるのはもはや指摘不要の事実である。

彼らが売れ出した2015年から2018年ごろまで、彼らを筆頭に、多くのロックバンドがテレビ番組で演奏を行った。それはいままでの「ロックバンドはテレビに出ない」という暗黙の了解を打ち破るもので、[Alexandros]、SHISHAMO、Mrs. GREEN APPLE、MAN WITH A MISSION、sumika、04 Limited Sazabys、WANIMAなど様々なバンドがテレビにこぞってでた。それにつられるように、かつてテレビに出ていなかったバンドもテレビの出演を果たすようになる。BUMP OF CHICKEN、RADWIMPS、UVERworld、横山健といった面々がテレビでトークをし、歌った。これらがKANA-BOONを機に展開された動きだとは言い切れないが、彼らの世代のバンドから風向きは変わったといえるかもしれない。

本記事でKANA-BOONを断罪しようとかほめちぎろうとか思っていない。あくまで、これを読んで各々が自分なりのKANA-BOONの立ち位置を振り返ってもらおうと意図したものだ。分析や社会評論はほかの人に譲ろうと思う。

たとえば2014年リリースの「シルエット」は国内のみならず海外でもアニメ効果で人気が高く、海外でのYouTubeでの再生回数は1億回を超えたらしい。

一方で2020年リリースの「スターマーカー」を聴いたとき、彼らが大きなサウンドの変化を選択せず、同一ジャンルの深化を図っていることが容易に想像できる。ちなみに衣装も髪型も大して変わっていないことからも、彼らは自分たちのイメージを守っていることもわかる。

ロックバンドが逆風なのは、世間の好みだけでなく、音楽の取り組み方とその受け入れられかたにも原因はあると思う。King Gnuの常田大希のような、非常に優れた音楽家の作る音楽がチャートを席巻しているのは、KANA-BOONが作ってきた音楽ジャンルとは全く異なるものだ。彼らの音楽には親近感があった。メロディこそが要であり、だからこそ誰でもヒットできる期待があった。しかし、そのシンプルさは次第に凡庸へと変わる。

彼らがデビューして間もなく、「あまり洋楽は聞かない」と発言したことがどんどんネットで広まり、良くも悪くも当時の彼らの世代のバンドマンのメンタリティが露発された形になり大きな賛否を、どちらかというと否定的な意見が多くを占めた。別にそこまで叩くような発言でもないだろう、とその時は思ったが、その後2枚3枚とアルバムを重ね今年リリースされた「Honey & Darling」を聴くと、その発言の真偽はともかく音楽性の限界というものを如実に感じられてしまうのも事実だ。

私もやはり「シルエット」や「Wake Up」などと好きな曲は複数あるが、その理由が単純に”好きなメロディ”でしかない。基本的なフォーマットは変わらず、とにかくメロディと展開とコードを変えているだけで、いうなればラーメンであることには変わらず、醬油にするか味噌にするかの違いになっている。もはやそれは好みの問題でしか判断できない。それ以外の要素が薄いからだ。手持ちのバリエーションに限りがあり、その組み合わせを変えていくだけでアルバムが構成されている。もし仮に現在もそれほど研究熱心に音楽を探求していないのだとしたら、納得してしまう(そんなことはないと思うが)。

日本のロックをこよなく愛し、そのまま吸収して自分たちの形としてだすドメスティックな作風は時代の新しい作り方だったし、それ自体は全く悪いものではなく、むしろ日本のロックのひな型をさらにブラッシュアップして世界から見ても唯一無二にしたのが彼らやその世代だというのも一理あると思う。だからこそ反感は尽きない。

彼らは作曲や演奏、歌唱力のスキル、そしてカリスマという点においても時代を代表するアーティストには到底及ばないが、それでも時代の寵児となれた。それは多くの無味無臭なバンドマンを勇気づけ、そしてマインドまで変化させてきた。彼らがいた世界線といない世界線では大きく日本の音楽シーン、フェスシーンは変わっていただろう。

みなさんにとってのKANA-BOONとは何でしょうか。どんな立ち位置を持って彼らを語ることができるでしょうか。ニューアルバムは彼らにとって新しい作品となることはできたでしょうか。