自由意志と決定論
「みんなでアルバムのテーマを決める会議を開いた時に、僕から『エブエブ』で描いていた『いろんな人生の方向性がありえたよね』という話をやりたいと。それは(その時点ですでに発表していた)『アングル』や『風の向きが変わって』で書いていたことの延長線上にあることでもあって。でも、それを多様性という言葉でまとめてしまうと、前作とテーマが被ってしまう。2024年のいまはより主観的に、『どう生きても良いのになぜ自分はそれを選ぶのか』について書いてみたかった。個人の中にはいろんな側面がある、ということを指摘するだけの状態からどうやって脱出するか。要は、多様性の次にあるステップです」(玉置)長年の哲学的な問いとして世界中で議論されてきた自由意志と決定論。「もしかしてありえた可能性」なんてものは本当にあるのか。人間はあらかじめ決められたレールの上を走っているだけにすぎず、自分の意志ではどうにもならないのではないか。アートワークでメンバー4人が料理を前に何ともいえない表情でこちらを見つめてくる『ザ・ビュッフェ』は、その「どうしようもなさ」を主題としている。
公式インタビュー
MONO NO AWAREのアルバム「ザ・ビュッフェ」はこうした動機で作られた。いつも深い眼差しと温かで近い言葉で私たちをゆるやかにほぐしてくれるバンドは常々明言はしなくても多様性について考えてきたと言える。その最遠到達点はこのアルバムにも収録されている「風の向きが変わって」だと思う。決して具体的な言及はなくても、向かい風を自分の人生に当てはめ、その向かい風すらクーラーみたいだと感じた時、すこし自転車のスピードがあがる。カザミドリの自分を鼓舞するように”飛んでみろ”とけしかける一方で、”漕ぐも漕がぬも自由”と意味を広げる。自由意志と決定論、それは上述のインタビューにも登場したキーワードである。
「同釜」はまさにそうですね。ただ、「ザ・ビュッフェ」というタイトル自体は、ビュッフェが内包する「気まずさ」というか……要するに人が集まり、「食べ放題」と銘打ったものに一定の金額を払うんだけど、実際はそこにあるものしか食べられないのがビュッフェじゃないですか(笑)。しかもビュッフェが行われる場所って大抵広くていろいろ気を遣うんですよね、「音を立てないように食べなきゃ」とか。別に嫌いなわけじゃないけど、その絶妙な気まずさと幸福感の入り混じった雰囲気には「社会性」もあるなと思って。それで「ザ・ビュッフェ」というタイトルにしたんです。
音楽ナタリー
そこで行き着いたのが、ビュッフェ。ごはんは”生”と直結しているし良いなと。ビュッフェってどうしようもないじゃないですか。供給側が用意したものからしか選べないし、知らない人と一緒のテーブルで食べなきゃいけない。でも楽しい。幸福で、ダサい。世界のありようのメタファーとして成立しているように感じました」(玉置)
公式インタビュー
私たちは自分たちで選択して生きているように思えるが、そのほとんどが、決められた選択肢から選んでいるに過ぎないという自明の事実を改めて突きつけられる。そしてそれを表す最たるモチーフとして”食”が選ばれた。人間が一番”生”に貪欲になる瞬間。食べることは肉体的で欲情的だ。
おでんを流しこむ
バナナマンのコント「cuckoo costume party」での一幕。設楽と日村は社員食堂で隣りあって座る。日村が食堂で注文して持ってきたのは、おでん定食。「おでんでメシくえますか?」と不可解そうにながめる設楽に対し「俺なんでもいける」と豪語する日村。我が家もおでんに白ごはんは定番なので、そんなことが笑いのポイントになることすら理解できないが、世間的にはお好み焼きやたこ焼き同様、おでんも白ごはんにはそぐわない食べ物の一つらしい。
それはともかく、おでん定食を前にし、「何食べちゃおっかなぁ、迷っちゃうよね、イッヒッヒッヒ」と笑う日村は「やっぱ大根なの?スタートは」と一人で喋り続け、大根を口に入れる。「あーーうめぇーー」と絶叫する日村。その後すぐに日村はコップを手に取り水を飲む。設楽はその様子を見て「すぐ水で流すの?」とまたここで日村の行動に不思議がる。
そうなんだよな、水、飲んじゃうよな、と個人的にすごく納得する。大好物なのに、あぁーーうめぇーーと絶叫するほど美味しいのに、その数秒後には水で流し込んでいる。それは一見すごく無意味な、あるいは味わいを軽視するような行動で、ともすればおでんを作った人を憤慨させてしまう行動かもしれない。ただ、私にはこの雑さがすごく人間らしく感じる。それは先述した「同釜」の、カトラリーの音を出さない練習をしたり立膝を叱られたり、いわゆるマナーや所作について厳しく追求される一方で、港区価格のランチも松屋のランチにしろ同じ屋根の下では一族、ひとは同じ釜の飯をくうのだ、という原点回帰的な視点と重なる。一語一句がキラーフレーズのこの楽曲には本質のみが語られる。でもそれは全てを効率化し理解したものではない。どんな飯を食ったって人は水で流し込むのだ。
生活と等価にある歌
生活をしていく。お腹が減ったらなにか食べる。あかちゃんがいる。
音楽ナタリー
洗濯物がゆれる。味付けに迷う。バレーボールがどっかに消える。
生活と等価にある歌たち。
憶えているささいなできごと。
おだやかな時間。よろこび。
でも「ここ数日どうしてか心がふたつ」になったりする。
あー、風が強いなあ。ねえ、風が強いよ。って言ったら、
やんでしまって、嘘みたいになっちゃって。
痛み。後悔。さびしさも連れて。
困りながら。忘れちゃうんだけど。
生活をしていく。食べる。寝る。そして、また起きて。
歌うんだろな、もののあわれは。うつれにけりな。
これは本アルバムの感想を映画監督の今泉力哉が寄せたコメントだ。生活と等価にある歌、とはさすがの表現だが、ここで一番大切なのは「困りながら。忘れちゃうんだけど」だと感じた。本アルバムにも「忘れる」という楽曲がある。
ペンキのはげた壁紙をめくるのが楽しくて涙も引っこむ
から始まる本楽曲は、何か悲しいことが苛立つことがあったのか、涙する人が壁紙を無心にめくることでその感情を一時的に忘れる様から始まる。
私たちは忘れてはならないことがある。この世界にはたくさんの人が生きていて、それぞれが違う人生を歩んでいること。自分の物差しでは決して測れないということ。分かり合えないということ。でもMONO NO AWAREは多様性の次のステップとして「忘れる」に注目した。なんでもあるのに、どう生きても自由な時代なのになぜ私は”これ”を選択したのか、という課題に向き合う。ありのままに生きたいのにありのままがそもそもわからないと行き詰まった時、バレーボールが屋上に消えたことを忘れたことや、昔は溺れた浅瀬が今では腰の高さになっていることに今になって気づくことに思いを馳せていく。少しずつ忘れていくことに気づきながらまた一つずつ忘れていく。そのどうしようもなさは彼らのテーマでもある。
「どうしようもない人間が集まって仕方なく集団で生きているんだ」って、せめて友達ぐらいはその共通認識を持っててほしいな、みたいな。それならもう少しラクに生きれるのになと思って出た言葉です。どうしようもなさを肯定しようとかそういう強い色味でもなくて、どうしようもないってわざわざ言わなくてもみんなわかっている状態だったらいいな、という感じ。「思っているほど社会って清潔じゃない」って、みんなわかっているはずじゃないのかなと言いたくて。
メッセージ飽和時代にMONO NO AWAREが表現したもの――大事なのは何を食べるかよりも誰と食べるか
正直、私はまだ多様性の次のステップに踏み出せていない。まだまだ社会は多様性を理解できていないし、むしろそれを逆手に取った「多様性なんてもういいよ」にまだ抗っていたい。だけどMONO NO AWAREはもうその前提は超えていく。わかってるよね、とスタスタと歩みを進める。羨ましさが強くなる。そうであっていたいのに、まだ留まっている自分がいる。どうしようもなく所在もわからず、うろたえる。そんな時、彼らは「アングルが変われば願ってたよりいいところにいるかしら」とそっと囁く。
大人になるほど他の誰かの命を過ごした気持ちになるけれど 知らないわ
もうけもん
私たちは気まずさの中で生きている、という。どうしようもない世界に、清廉潔白でなき私たちは一つになれずに生きている、という。わからないことをわからないままにする。忘れること忘れる。おでんはすぐに水で流し込む。そして忘れる。不思議そうにながめる。それが不思議に思う。それが「もうけもん」では自分の子供への眼差しに変わるとそれだけで愛おしくて愛おしくて「あんたってもうけもんだね」と言いたくなる。この歌を聴くたび、目の前の我が子が愛おしくてたまらなくなる。抱きしめたくなる。てか抱きしめる。この世界に産み落としておきながら、頑張って生きろよ、と強く思いを込める。多様性の次のステップで生きる君たちがこの世界を丸くしていくんだよ。