星野源が2024年の紅白歌合戦で「ばらばら」を披露した。彼の最初期の楽曲であり、弾き語りで披露された本楽曲は大きな反響を呼んだ。この楽曲が披露されるまでのいきさつも複雑だった。ここでは割愛する。今はみんな覚えているだろうが、数年後この記事を読む人には何のことかわからないかもしれないので、その人たちは「星野源 ばらばら 2024年紅白 問題」とでも検索してみてほしい。

もう済んだ話を蒸し返す必要もないだろうという人もいるかもしれない。でも私はむしろ積極的に蒸し返す。蒸し返す、という言葉は適切でないと思うので、思い返す、と表現を変えておく。もともと披露されるはずだった「地獄でなぜ悪い」を糾弾した人も、星野源及び楽曲には罪がないと批判に対する批判を行った人も、大抵の人たちはみんなすぐに忘れていく。あれほど強い言葉で断言し、ときに誰かを「バカだな」などと罵り合ったくせに、そのことも無責任なほどに忘れる。そしてただただ本人だけが傷ついていく。そんな事象を今までたくさん見てきた。だからこの騒動がいったい何だったのか、きちんと覚えておきたい。そしてたまに思い返して、この先どう捉えていけばいいのか、どう活かせばいいのか参考にしていく。

私たちは言葉をコミュニケーションの一つとして身につけたが、文字が発展したことで言葉を記録することができるようになった反面、意味を取り違えられるようになった。取り違える、というか、感情がのっからないので受け取り方は人それぞれになってしまった。この「ばらばら」という楽曲の歌詞も、みんなそれぞれ自説を強化するために利用した。本人が語っていないことを勝手に代弁し始めた。代弁し、「ほら彼、怒ってるでしょ。」と迫ってくる。その怒りはどこから?と尋ねたくなる。

私は怒っているわけでもがっかりしているわけでもない。ましてや音楽という文化を軽んじられたとうなだれてもない。ただただ悲しいのだ。一部の過激な人が一部の反対意見の過激な人の意見を取り上げ大きな声で「この人こんなこと言ってますけどおかしいですよね」と仲間を呼び寄せる風景が寒々しい。強く断言する。こっちだと言い張る。その根拠もこんなにたくさんあると提示する。澱みなく、具体的に。それらはどちらの意見も正しくしなやかで誠実だ。だけれどとにかく強い。他を寄せ付けない強さがある。譲歩も傾聴もない。

仕事で辛いことがあった。大きなミスをして、こっぴどく上司に叱られた。バカ、クズ、とののしられた。後輩から鼻で笑われた。帰り道、コンビニに寄ってホットコーヒーを買う。8円を出そうとして、なかなかでなくて、ようやく全部出したと思ったら7円しかなかった。結局10円玉を出した。店員が小さな舌打ちをした。外に出てコンビニの外に止めていた自転車が他の自転車のドミノ倒しに巻き込まれ下敷きになっていた。自分の自転車だけを取り出すこともできず。端から一台ずつ起こし、ついでに自分の自転車が下敷きにしていた側の自転車も起こす。その自転車のグリップはすごく粘着質でぬちゃっとした。ちょっと急いで帰ろうと信号無視したら車と接触しそうになった。クラクションを鳴らされた。家に帰る。いつもはスッと入る鍵穴が、今日はうまく入らない。30秒ほど格闘しようやく鍵を開けて入る。妻が待ってくれていた。第一声「お疲れ、今日は?」と聞いてくる。「うん、まあ、大変だったね」と返す。

今のはあくまで例として挙げた架空の物語だ。大変だった、に収めるのにも無理があるほどの情報を強引に押し込めた人がいる。語らなかった部分がたくさんある。語らない部分は、なぜ語らないかというと、語りたくないからだ。誰かに代わりに語ってほしいわけでもない。でも何もなかったわけではない、大変だったのだ。でも大変だった、をそのまま受け止めてほしい。それを分解しないでほしい。大変の中に怒りを見出さないでほしい。怒りをそのまま受け継がないでほしい。でも語った部分を大切にしてほしい。

楽曲「地獄でなぜ悪い」は星野源の曲です。

詞の内容は、星野の個人的な経験・想いをもとに執筆されたものです。後述する映画のストーリーを音楽として表現したものではありません。星野源の中から生まれた、星野源の歌です。

一方で、すでにSNS等で指摘されているように、のちに性加害疑惑を報道された人物が監督した映画の主題歌であること、映画タイトルにある「地獄」というワードにヒントを得たこと、映画タイトルと同名の楽曲であることもまた事実です。この曲を紅白歌合戦の舞台で歌唱することが、二次加害にあたる可能性があるという一部の指摘について、私たちはその可能性を完全に否定することはできません。

これは星野源が「ばらばら」に曲目を変更した時に発表された文章の一部である。星野源は自分の曲だと語った。これは事実であり本人の強い意志でもある。その一方で「一部の指摘について、私たちはその可能性を完全に否定することはできません。」とも書き連ねた。それもまた事実である。語った部分を勝手にそぎ落とさないで大切に受け取る。彼の言う通り、人はもとよりばらばらなのだとしたら、なおのことその姿勢が大切だ。

この問題の本質を探ろうとする人がいる。そしてジャッジしようとする人がいる。どうしても私はそれを素直に受け止めることができない。辛くて誰も幸せになれないこの問題をどうやら答えを出したがる人がることに胸の動悸が止まらない。「みんなばらばらだから仕方がないよね」なんて諦めの言葉として利用する人もいて目がちかちかする。そんな人たちは、ばらばらという事実を甘く見ている。決して”あなたと私がばらばらですね”にはとどまらない。”あなたと私とあの人(第三者)がばらばら”なのだ。そしてあの人にどれだけ想いを馳せられるかが大事になる。そしてそのすべての人の人生を想い馳せることはできないと知る必要がある。そこではじめて「そのままどこかへいこう」と続く。多様性も、ばらばらも、わかった気でいる。理解したつもりでいる。だから強弁する。違うと思った意見をののしりながら自説を強化する。地獄でなぜ悪いを聴いて辛い思いをする人がいるかもしれない。いやいや、今更その曲を聴いたところで悲しみが増強されることなんてないよ、という人がいるかもしれない。もう毎日がいまだに立ち直れていないのでそもそも紅白なんて観られません、という人もいるかもしれない。すべての可能性がある。じゃあ一人ずつ聞いて回るのか、アンケートでもとるのか。配慮とはそういうたぐいじゃないと思っている。配慮って先回りのやさしさだと思う。先回りのやさしさとは実数を測って行動することじゃなくて、その可能性をつぶさに想像してその芽を事前に摘み取っておくものだ。だから私はばらばらであることも多様性も理解できたことはない。でも諦めない。開き直らない。そして自分の都合のいいように利用しない。

私もあなたもあの人も星野源じゃない。そしてこれは社会正義の話じゃない。キャンセルカルチャーの話でもない。そんな話はよそでやってくれたらいい。人と人とのやさしさの話だ。それも、薄っぺらい教室の壁にかかったお題目ではなくて、リアルで身近で深刻な話だ。

私は想い馳せられているだろうか。本当はみんなおなじなことを。腹が減って飯を食って糞をして綺麗ごとを言う同じ人間なことを。それでいて”ばらばら”だということを。理解できているのだろうか。わかってる。世の中には「そんなこと考えてもしょうがないじゃないか」「全部の意見を聴くことなんて無理じゃないか」と言ってくる人がいることを。最大幸福を考え、多数決を重んじる人がいることを。些末なマイノリティなんて無視しておけばいいと考える人がいることはわかっている。でもどれだけそう言っていろんな”あの人”たちをないがしろにしたとしても、私は思い悩みながら耳を傾けていきたい。通り過ぎたときに声をかけられたら、きちんと振り返り相手の目を見て話したい。しょうがないじゃない、とは言いたくない。しょうがなくないから声をあげているわけで、しょうがなくできるのは自分がマジョリティで特権側にいるからだ。

わからないって言いたい。わからないことが許されない気がするこの社会で、わからないって堂々と言いたい。わからないって、ばらばらを理解するための一歩じゃないかな。自転車を他人の分まで起こす人、8日連続勤務の上、今日はレジ担当が自分しかおらず6時間立ちっぱなしで疲れているところに小銭をばらばらと出したりしまったりする客を見て舌打ちする店員、仕事から保育園へ直行し子どもを迎えに行き、帰宅するとすぐに晩御飯の支度をしていたら夫が帰ってきて何気なく「お疲れ、今日は?」と聞く妻。クズ、とののしる上司。車で娘を塾まで迎えに行こうとしたら自転車が突然信号無視をしてきたので慌ててブレーキを踏み、思わず怒鳴ってしまった人。さっき書かれていない情報が書かれている。そぎ落とされた文字に隠された背景があぶりだされてくる。

私は、寂しい。ばらばらってことがじゃなく、離れ離れってことが。