評価はいらない

今年のM-1グランプリはいつになく盛り上がり、どのコンビもハイクオリティな作品を披露していた、ように思う。それは私も友人たちと一緒にその模様を見届け、みんな口をそろえてどのコンビも絶賛していたことや、TwitterなどのSNSでの反応を観ればよくわかる。

お笑いは、考えてみれば、昔から大好きだった。大阪の人間だから、という理由もあるが、小学生の頃からbaseよしもとをチェックして、深夜のバラエティはくまなく観たりして、一人でお笑い芸人のNSC入所年を調べ上げて年表作ったりと、どちらかというとオタクっぽい愛し方をしていた(いわゆる追っかけしたりなどは人生において一度もしたことがない)。
故に、高校生の頃はまあまあ毒のある人間だった。俺様はお笑いに詳しいんだぞ、評価してやるぞ、みたいなスタンスで、当時のM-1は偉そうに全員採点して「いやこの構成はよくなかったよね」とか言ったりして。今思うと高校生らしくていいなという部分と、イタすぎて辛い部分が混在している。

なので、今年は採点はしない。点の予想はしても、自分が偉そうに点数をつけるようなことはしない。みんな上手だし天才だし素晴らしいプロの方々。自称お笑い通はやめて楽しく見る。ただ、一点だけ、私が注目している点があった。


“コンプラ”が批判の言葉に変わった

00年代の頃は”コンプラ”という言葉は割と同情的に使われていたように思う。「”コンプラ”が厳しいからテレビのできることが少なくなった」とか「”コンプラ”がうるさいから面白くなくなった」とか。
でもここ5年くらいでその様相はガラッと変わった。「まだ”コンプラ”に違反するような番組を作ってるのか」「”コンプラ”を違反するような笑いしかできない芸人なんだな」といった、批判の声に変わってきたのだ。人を傷つけて笑いを取ったり、生まれ持ったものを揶揄したり差別したり、あるいは他人のセクシュアリティを馬鹿にするようなことは決して許されない。それをある人は「ポリコレ棒」と呼ぶが、ポリコレ(ポリティカルコレクトネスの略。政治的公正のこと)は多少厳しいくらいの方がよいのだ、そうでないと人は変わらないから。もちろん行きすぎな部分も多々あるが。

今年はそれを象徴する出来事が多かった。まずはAマッソ。彼女らの発言が、肌の色を侮辱する内容であり、差別的だったため炎上した。また、立て続けに金属バットも炎上した。こちらも人種差別的な発言を取りざたされ問題となったのだ。
この二組に共通するのが「揶揄」や「皮肉」が持ち味のコンビであるということ。ちょっと毒のあるフレーズがブラックジョークとして機能し、おもしろい。それは昔から多用されてきた手法ではある。しかしその手法が横行していたのはあきらかに人種的な差が設けられていた時代の話だ。植民する側とされる側、雇う側雇われる側、のような構図がはっきりと分断して存在していたから、その上に立つ者が下を蔑み、上の人間のコミュニティの中で喜ばれてきたものなのだ。

しかし2019年においてそれは通用しない。どんな人であれ、うまれもったものを中傷することは許されないのだ。ただ、「ブラックジョーク」が消滅すべきとは思わない。その面白さは確かにある。それが存在して良い唯一のスタンスは、自分より上の権力者や有名人の事実に基づくユーモア、であるということ。しかしそれも出自などではなく、言動を揶揄する場合のみだ。トランプ大統領のそっくりさんと金正恩のそっくりさんが仲良く肩を組みながら街を歩く、というのは立派なジョークである。決して彼らは出自や肌の色などを差別したいわけではないからだ。



話はそれたが、Aマッソにしろ、金属バットにしろ、少し前の保毛尾田保毛男(とんねるずの石橋のゲイキャラ。2017年に数十年ぶりに復活し大炎上した)にしろ、そんなリテラシーの欠如、今の時代のアウトなラインへの無頓着さが招いた事故は到底擁護できないし、どちらも大好きな芸人なだけにショックな出来事だった。

つまり今の芸人は、どれだけアンテナを張れて、どれだけ今のカルチャーに対してしっかり知識を持っているか、その深い愛と常識力と、表現者として最低限身に着けておくべきリテラシーが問われているのだ。おもしろければいいなんて時代ではない。
そもそもお笑い芸人はカルチャーの中でもかなり特異な存在だったと思う。落語でも講談でも、必ず師匠がいて、伝統を受け継ぎ過去を参照し、勉強から始まるのに、お笑い芸人は彼らの人生20年ほどで培ってきた独自のおもしろさを育てることだけに専念するのだ。もちろん売れっ子芸人や才能あふれる人たちは勉学も怠らず昔の漫才やコント、映画喜劇舞台など幅広く吸収しているのだろうが、そのほかの有象無象の芸人は学ぼうとしない。過去から何も参照しない。だから世界の事も学ばない。いま人々が何に怒り何を変えようとしているのかもわからない。そんな人間が思いつくことは、小学生と変わらない、他人を差別する事か自虐するとこかあるいは面白い動きや顔をすることしかない。


ぺこぱというシンボリックな存在

今年のM-1に話を戻す。私はじゃあ誰が一番時代に沿った漫才ができるのか、そこを注目して観ていた。私自身、皮肉が大好きで、だからこのブログも書いているのだが、その点ニューヨークや見取り図といったちょっと毒っ気のある芸人を応援していた。ただ、ニューヨークが「女は○○なことなんかしないんだ」といった女性差別にも捉えられかねないネタをしないのか少し不安はあった。でも彼らがそこをすごく気にしていて慎重に扱っていることも十分承知している。彼らは差別を助長するタイプではなく、むしろ我々の一般的な偏見をうまく利用して解きほぐしていくタイプでもあるのだ。下のスピード違反などは、悪そうに見えて実はすごく立派な人間だったというおもしろさがある。

そして、結果はミルクボーイの優勝という結果になった。しかしツイッターでそれと同等にもちきりなのは、ぺこぱだった。

ツッコミの松陰寺が発する言葉はどれも印象的で、ネットミームたちの恰好のえさになっている。彼らがこの1日の間でこれだけ話題にされているのは、松陰寺が寛容的で多様性を認めるようなポジティブでやさしいものだったからに他ならない。だれも傷つけない、そういう人もいるよね、だから許す。この”許す”こそ今の最大のトレンドである。


許すことが安心につながる

日本は寛容性が低く、無関心層が多いと言われているが、松陰寺は真っ先にそれを実践している。事実、Twitterなどでは「誰も傷つけない」とか「やさしい」といったコメントで溢れている。もちろん、Twitterの意見なんて極めて一部的で世間の総意なんかではないことは、今年の夏、あれだけ散々若者に選挙に行くよう促したツイートがバズりまくっていたのにふたを開けてみれば単純に投票率が過去最低だったことから自明である。それでも、あの笑わせ方こそが今の時代性なんだなと気付かされる。
個人的に言うと、あの類はあまり切れ味を感じず爆笑できなくて、あの10組の中でも笑う回数は少なかった(なすびのヘタと正面が変わったのは腹よじれるほど笑った)のだが、だからといって否定するつもりもないし、むしろあれがみんなに受け入れられる正解なんだと思うと俄然応援したくなる。(手前みそだが、ここで重要なのが「自分はそうは思わないが、認める」というスタンスだと思っている。「俺はおもしろいとおもわない!だからあんな笑いは糞だ!!!」となると途端にTwitterにありがちな泥沼の論争が始まり摩耗するだけのゴミ生産機になってしまうから)


まとめ

笑うという非常にシンプルな人間の生理現象だが、そこへのプロセスは人間ならではの複雑さがあいまっている。
私はあまり好きではないのだが(とはいいつつ書籍は買っている) 、ポリコレ大好きパーソンとして認知している深爪さんのツイートを引用して締めようと思う。

ぺこぱを取りたててすごいとかはやし立てる意図もないし見取り図やニューヨークを過剰に擁護しようとも思わない。自分の面白いと思うツボと、これからの社会やお笑いがあるべき姿とのすり合わせをこれからも続けていくだけだ。ポリコレ棒大好き人間はさぞ気持ちいいだろうが、こちとらすこしずつ時間をかけて理解していくしかないのだ。人間そんな完璧じゃない。私だって。立派な人間なんかになれるわけがない。努力していくだけだよ。
しかし本当にみんなおもしろかったなあ。評価も批判も一切する気が起きないね。