Mステのランキングから思う事

Mステが最近ひどい!という感想をお持ちの方は多分多い。あのアーティストとアーティストの間のランキングと去年の登美丘高校ダンス部の流行にあやかった高校生ダンス企画が史上最高にくだらないとお怒りの視聴者は多いはず。むしろあれを待ち望んでいる人間がどれくらいいるのか怪しい。「それでも流れてるってことは視聴率がいいからだよ」と誰かが言う。まてまて、それ本当?そう信じ込んでいるだけで、そう願っているだけじゃない?何と比較したの?そうに違いないという盲目的な決めつけは案外テレビの中では常習化している。
さてそんなMステへの文句はあるブログがぶちまけてくれているので、そちらを読んでもらえればスッキリすると思う。言いたいことが全部詰まっているけど表現豊かで悪口が痛快なので胸のつっかえが取れたような感じがする。そしてこの記事がツイッターで何千もリツイートされているのをみて、やっぱりみんなあの企画の意義を見いだせていないんだと知る。改めて今年放送されたMステのランキングを一覧にしてみる。

Mステランキング(6/10現在)
1/12 「アガる歌」ランキング
1/26 Mステ恋唄ランキング
2/2 外国人が一番好きな日本人アーティスト
2/16 高校ダンス部に聞いたダンスがうまいと思うアーティストランキング
2/23 高校生が選ぶJ-POP「アガる歌」ランキング
3/9 受験生に聞く「応援ソングランキング」
3/23 10代が選ぶ卒業ソングランキング
4/20 10代が選ぶ親から教えてもらったお気に入り曲ベスト3
4/27 強豪ダンス高校新入部員に聞いた このダンスに憧れて入部したランキング
5/4 あなたが好きな21世紀のアニメ主題歌ランキング
5/11 親から教えてもらったコラボ&デュエット曲ランキング
5/18 親から教えてもらったドラマ主題歌ランキング
5/25 親から教えてもらった恋唄ランキング
6/1 親がお気に入りの曲
6/8 ダンスが凄いと思う映画ランキング

他局の「関ジャム」での業界人による同業者よいしょも十分あざとくてうっとおしいが、さすがにただの高校生に凄さを解説されてもピンとこない。それにダンスがうまいと思うアーティスト上位に嵐が食い込んでくるランキングの何を信じればいいのかわからない。あと、ダンス部の男子生徒ってこの世に存在しないかのように扱っているのは意図的なのか偶然なのか。
それにしても5月からの1か月の「親から教えてもらった」シリーズには辟易とした。まあまともにちゃんとは見てないんだけれども、にしてもどんな入り口にしろ結局”知らんオバハンの初恋エピソード&恋唄”に帰着するため同じ曲ばかり選出される。「糸」のオンパレードだ。もう「糸」しか聞いたことない。駅前のストリートミュージシャンと思考回路は同じだ。そもそもの企画として破たんしているのに、助かったと言わんばかりに「親から教えてもらった」シリーズを重宝する番組スタッフはよほどの怠慢か、なにかのフェチなのかもしれない。
大学生の頃、テレビ制作会社のインターンに半年くらい行っていて、ドキュメンタリー制作のお手伝いをさせてもらってた時、こんなの視聴率とれねえよインタビューした身内しかみねえだろ、と思っていた。しかし同時に「これ本人含め身内は絶対見るよな。視聴率を稼ぐ一番簡単な方法ってなるべくたくさんの素人を出演させることじゃね?」と思いついた。今は分かる。人間は他人の人生に微塵も興味ないことを。お前の人生と恋愛遍歴は死ぬほどどうでもいいことを。気になるのはアナザースカイに出れるようなごく限られた芸能人のみだ。私が安易に思いついた愚策を地で行くMステには頭が下がる。

“歌”と”唄”の違い

もうひとつ気になるのは、恋とつくものだけに”歌”ではなく”唄”が使用されている事だ。なぜ”歌”ではなく”唄”なんだろう。このモヤモヤはなんだろう。まずはこの二つの差異から紐解いていく。

歌とは

「うた」全般に使うことができるのが「歌」の最大の特徴です。
①声に節をつけて歌う詞。
②音律に合わせて数を整えた詞。
③和歌。短歌。やまとうた。
④唄。歌謡。はやりうた。

一方で”唄”は

三味線に合わせて口ずさむようなうたい方をする小唄など、日本の伝統的な邦楽に合わせてうたう詞について用いることが出来るのが「唄」です。
なお「唄」は常用漢字ではありません。
よって公用文や学校のテストの解答用紙など常用漢字を用いることが決められている場面では、たとえ伝統的な邦楽であっても「唄」ではなく「歌」を使うようにしてください。

と分けられている。要するに、うたの全般的なものを指すときは”歌”を、伝統的な日本音楽を指すときは”唄”を使用するらしい。なぜ日本の伝統的な音楽には”歌”ではなく”唄”を使用するのかは明言されていないが、おそらくそこに特別な感情があるからだろう。人間はそのもの自体に特別な思いがこもっているときは言葉で差別化する。音が同じ場合、日本人なら漢字で分けていく。”唄”と表すのは、他の音楽とは一線を画すから。どう一線を引いているのかというと、そこに「日本人の心」があるかどうか。この「日本人の心」があるものを洋楽的な歌と差別する。まぎれて心を失ったりしないように。


東大生は人生の敗者か

少し前に現役東大生がクイズに挑戦する番組があった。その番組はクイズのみならず、様々なアクティビティに挑戦するものなのだが、そこでフィーチャーされがちだったのが「彼女もできたことがない」という事だった。
あるサイトでも実際の東大生出演の際の傾向として

変わり者扱いされる

勉強はできるけどそれ以外はできない

彼女はいない(童貞)

というものがあるらしい。要するにテレビ的(視聴者的)には「東大生は頭がいいけど恋愛もできない社会不適合者だから私たちだって東大生に負けていない(むしろ経験値なら勝っている)」と思い込みたいのだろう。もちろん全員がそうとは言わないが、そういう節がある事は否定できない。(ホウドウキョクバラエティー番組が描く「変な東大生」に現役東大生が抱いた違和感より引用)
どれだけ勉強ができようが、お金を稼いでいようが、恋をしていない人間は劣っているという考えがもし仮にわずかでもあったとするならば、それは恋にだけ”唄”を使う理由が少し見えてくる。人間の根源的で原始的な恋愛という動物的衝動は経験しなければ不幸である。それは人生を語る事よりも、日々の辛さを告白する事よりも特別な思いをもってなされるべき行為だからこそ”唄”になる。そこに本人たちの意思はない。どれだけ「いえ、私は恋をしなくても幸せです」とつっぱねようと、それは負け惜しみであり敗者の弁だと受け止められてしまう。先日の「ダウンタウンなう」の番組内で、小柳ルミ子が、私はもうサッカーを恋人にしたので恋愛しません!と断言したら、隣にいた坂上忍が「えーーーー!恋愛しましょうよー!!!」といつものしゃがれたガラガラ声で迫っていた。宝塚出身のかつて一世風靡したトップアイドルで、大澄賢也と離婚し石橋正高と婚約解消するなど大きな波も経験し、そのたびにバッシングを浴びてきてコリゴリだったというエピソードを話した上でのあの発言だった。しかしその文脈を全く無視して坂上は「恋愛しましょうよーーーー!!!!」と執拗に迫る。もう65にもなる女性にも、それでも恋愛は人間にとってマストツールだから、サッカーが恋人なんて逃げだから、と断言する。恋愛のフィールドから降りることはできない。常に恋愛できない人間として敗北を味わい続けなければならない。恋は絶対に”歌”であってはならないのだ。


“唄”の実用例から考える

この”唄”は実際にどんな場面で運用されているのか。調べてみた。
タイトルに”唄”がつく曲は1647曲もあった(Uta-Net調べ)。人気一位はGreeeenの「愛唄」。まさに愛の唄だ。と、出だしはよかった。私の思った通りの結果になると信じていた。しかしいきなり二位でつまづく。二位はFANKY MONKEY BABYSの「希望の唄」だった。おいおい恋じゃねえのかよ。いっつもそうだ。彼らは裏切ってくる。言葉のチョイスが謎過ぎる。パターンにはめれるようではめられない。しかし混乱するのはその中身もだ。歌詞を追っていくと

ああ気付いてほしい この歌の意味を知ってほしい
僕にとってこんなにも 大事で必要な人

なんだ恋の唄じゃないか。と思ったが、”唄”ではなく”歌”が使われている。どうしてタイトルに”唄”を使ったのに曲中は使わないのか。むしろ逆なはずなのに。いちいちややこしくさせる。彼らは”唄”に深い意味もなければ根底にある共通の概念もないのだろうか。どちらにせよとりあえずそっとしておく。これは必要なスルーだ。うう…….。
他にもBUMP OF CHICKENの「車輪の唄」、THE BOOMの「島唄」、Mr.childrenの「旅立ちの唄」など。そして上位はGreeeenとBUMP OF CHICKENの”唄”合戦が続く。この二者はよく”唄”を使う。一般的に恋の唄しか歌わないGreeeenと恋の唄は歌わないとされるバンプに”唄”が多いというのは意外なマッチアップだ。「友達の唄」「とっておきの唄」「飴玉の唄」「くだらない唄」が並ぶバンプに対し、「花唄」「卒業の唄~アリガトウは何度も言わせて~」「冬のある日の唄」「始まりの唄」「父母唄」が名を連ねるGreeeen。卒業の唄にサブタイトルをつけるところが絶妙な不協和音を生み出していて彼ららしいのだがそれはさておき、”唄”連発しすぎだろ。私のだらだらと述べてきた”唄”の重みが一気になくなる。
ただ全体的に眺めた結果として、THE BOOMの「島唄」や多くの演歌歌手の”唄”の使用は、ご当地への想い、もしくはそのまま民族的な音楽だから”唄”を使っているという理にかなったものになっている。そしてポップ歌手に名なればなるほど恋愛の意味でつかわれることも当然多くなるのだが、一方で無差別に使われていることもわかった。とりあえず”唄”にしておけば、ひとひねりした感がでるからだ。特別な意味がありますよというメッセージを放てる。安易な手法として乱発されている。
一方で”歌”がタイトルに使われているのは2882曲(Uta-Net調べ)。1000曲以上も多いのだが、検索人気一位は「宝塚歌劇団」であり、これはノーカウントにあたる。二位以降も「ああ玉杯に花うけて(一高寮歌)」「あゝ恋歌」「あゝ恋晩歌」と続く。なにしろ知名度がない。21世のポップスが全く入るスキマもないし、そもそも”歌”として活用しているものも少ない(寮歌や歌劇団など)。ようやく最近の曲は5位のthe peggiesの「I 御中~文房具屋さんにあった試し書きだけで歌をつくってみました。~」。しかしこれは文房具屋の試し書きだけで作った曲なので”歌”になっている、非常に参考になる良い例だ。まったくファンモンもこれくらい都合の良いサンプルを提示してくれy….

その後も多くの楽曲が並ぶがどれも概念的な”歌”の使い方ばかりだった。つまり、”歌”の説明であって”唄”の想いはこめられていない。「歌わせて」とか「歌わせないで」という動詞として”歌”を使用する場合も多かった。そして、JPOPにおいて”歌”が使用される場合はほとんどないことが分かった。それはJPOPは恋の唄ばかりだという指摘が妥当だということではない。もはや大前提として「特別な意味が込められていますよ」という合図として用いられているだけなのだ。つまり、うたの説明がしたときは”歌”を、うたの想いを表したいときは”唄”を使っている、それにすぎない。しかしそれはどことなくMステの活用と似ている所がある。テンションが上がるならどんなうたでもいい場合は”歌”を、恋にまつわるエピソードがあるなら”唄”を適用しているMステと、この日本のポップス界において通例化している”唄”の使用は極めて近しい。とにかくなんでも歌にはおもいがあるはずだ、そうでしょ?と言わんばかりに”唄”が連発されるのは坂上忍の「恋愛しましょうよーーー!!!」だし、童貞東大生を笑う視聴者と何ら変わりない。


まとめ

と強引にしめくくってみた。まあ別にこれですべての謎を解き明かそうとかそんな意図はないので、ちょっと強引くらいの方が楽しい。若干ディスってしまったFANKY MONKEY BABYSには申し訳ないと思う。”唄”って安易に使うけど、そこに本当に想いがあるのかい?と尋ねたくなる曲がある事も否めない。どんな人生を歩もうが本人が納得しているならそれで正解だと思うし、65にもなる人を捕まえて恋愛を強要はしたくない。どちらにもきちんとリスペクトして、マウント合戦からいち早く降りたいなあと思うんだけれど、そう簡単にいかないのが小心者の私である。