サマソニ2022の東京でマキシマムザホルモンがMCで問題発言をした、というもの。

私はそこで実際に見聞きしたわけではない。なのでニュアンスの問題もあると言われるかもしれない。知らない見てないのに決めつけるなんてと言うかもしれない。

でもこれだけの人が言及して「こんなこと言ってた」とツイートされたら、それはもう確定だあり、しかもこの問題はニュアンスは関係ない。ダメなものはダメなのだ。

音楽ブログやってる人とか、音楽でインフルエンサーみたいなことやってる人はコロナに関しては指摘して回るのに、ちよっとナイーブな話になるとダンマリを決め込む。自分の思想を出すことが批判やクレーム、難癖をつけてくる輩の標的になりかねないからだ。私はそれでもここではっきりとノーを突きつける。だって思想のレベルじゃないからだ。誰もが最初に習うべき、すごく原始的な人間関係においてのルールだからだ。人を蔑み揶揄して笑わない。当たり前の話だ。それがなぜか大人になるとできなくなり、この原則すら屁理屈で正当化しようとする人たちがいる。

わざとカタコトで話すというのは(しかも誰かをモノマネするような)差別を助長している。していないとは言わせない。第二言語であるゆえに、あるいは覚えたてがゆえにカタコトになる言語をバカにする(意図があろうかなかろうが)ようにモノマネすることが褒められたことじゃないくらい誰でもわかるはずだ。

私は仕事で英語を使う。でもそんなにネイティブほど話せるわけでもない。そんな時に海外のお客さんから電話がかかってくる。当然自分が受け答えする。頑張って聞き取って会話をするから、時にプチパニックになって声がうわずったり、変なアクセントのyesやsorryが出てしまう時がある。それをたまに社内の近くで聞いてる人が私の真似をして遊んでることがある。非常に不愉快だった。こっちは真剣に一生懸命伝えようとしているだけなのに、それを下手くそとでも言いたげにカタコトモノマネをする。私は笑わずに、そういうことをして私が英語を話しづらくなったらあなたが次このお客さんの対応しなきゃダメなんですよ、と言う。日本人同士でもこういう事もある。

ある時、バーに行くと気のいいマスターと先に店にいた外国の人が英語で楽しそうに会話してた。そこに若い日本人男性が入店し、私の近くに座った。そのうちその男性と私は少しずつ話し始め、話も弾んできた時、彼は外国の人を見てこう言った。「今彼、明日は天気が雨だぜ〜って言ってるよ笑」。もちろんこれは適当だ。彼は英語を理解できないから、アテレコのように、英語で話す外国人男性の会話を勝手に翻訳し始めた。私もその時は笑って聞いていたが、その瞬間マスターが血相変えてこっちに来て男性に「それ差別だからね。それ自分がされたらどう思う!?」と叱った。私はその時にハッとして、笑った自分を恥じた。差別ってマジョリティがマイノリティにするものだと思ってた。でもその状況って、店内では日本語がマイノリティだった。でも店を出て社会全体で見ると結局はマジョリティな日本語話者が、さも「こっちは英語もわからなくてマイノリティだわ」のポーズをとりながら英語話者を差別していたのだ。こういうことも、気をつけないといけないのだ、とその時初めて学んだ。

話を戻す。カタコトが面白いというのは笑いのメカニズムとしては間違っていない。うまく話せない幼い子供が可愛いかったり、カタコトで話しながら間違えるボビーオロゴンが面白かったり、その事実自体を否定するつもりはない。人間は(私も含め)劣っていたり失敗したりするものに敏感で、笑ってしまう。

でもだからといって公衆の面前でやるものでもない。さらにその前にRINA SAWAYAMAがいて、ジェンダーやマイノリティへのポジティブなメッセージを発信した後だった。あまりに悪趣味で、下劣としか言いようがない。これはどんなニュアンスだったのかは関係ない。推測や汲み取りが過剰というわけでもない。ただひたすらにその事実だけに怒りがある。

誰もがそう言ったメッセージを発しなければならないわけではない。そしてどんな価値観も確かにあっていいと思う。どれだけ下ネタを言っても、それを模したポーズで踊っても、それなりに許容はされるべきだし、事実されてきたはずだ。つまらないなとは個人的に思っても、そのノリはいつまでも担保されてきたはずだ。でもそれを場によってわきまえる常識力、判断力、知識、品、それらがマキシマムザホルモンには著しく欠如している。

数年前にDJ社長とコラボして炎上したのも、女性の性被害を軽視し告発を妨げるかのような下品そのものなドッキリに加担したからだ。品行方正であれというわけではないが、なんにだって限度がある。あまりに成長がなく、40過ぎた男女がこんなくだらない小学生のような笑で満足していることが心底ガッカリした。そしてそういう人たちなんだと理解した。

こんな小さなことでごちゃごちゃ言うなんて生きにくい世の中だ、という人は、じゃああなたか踏み躙り続けて誰かが生きにくくなって初めて生きやすくなってるその状況に矛盾が生じていることに気づいて欲しい。ことが大きくなるまで黙ってろという暗黙のメッセージは、傷つき誰かが命を落として初めて考えようという姿勢に他ならない。ほんとにそれでいいと思ってるのだろうか…?

例えば土佐兄弟がネタで「間抜けのハーフ」と題して鼻に筋を入れ化粧して「そのくせに英語が話せない」と揶揄したが、そんなステレオタイプで差別的な眼差しで面白いと思っているなんて知性が知れる。それに近しいものを感じる。ただひたすらに醜悪なのだ。これを指摘することのなにが及び腰なのか、あるいは”彼ら自身”もホルモンのMCにキャッキャと手をたたいて笑い「こんなの冗談じゃん熱くなるなよwwwww」と冷笑しているからなのだろうか。

The 1975がジェンダーバランスを考慮したラインナップをリクエストし、アジアにルーツを持ちそのマイノリティを一蹴する爆発力をもったThe Linda Lindasがいて、LGBTQやマイノリティについてポジティブなメッセージを放ったRINA SAWAYAMA。ほかにもBeabadoobeeやボディポジティブを訴えるmegan thee stallion、「Stand out fit in」を大合唱で締めたONE OK ROCK、ニップレスで演奏するMåneskin、などなどこれだけはっきりとした世界標準のメッセージがありながら、日本のバンドの一組として登場した彼らが踏みにじっていくのははっきりいって残念でしかない。

ちゃんと大人にいい加減になってほしい。何度炎上したら済むのか。高校生のころ大好きで本当にずっと聞いていたバンドだから悲しみはより深いし、これじゃあこの先もライブは絶対見たくないなと思わせるに十分すぎるショッキングなニュースだった。

だれかを踏みにじって嘲笑って矮小化して弾圧して住みやすくなった世界と笑える世界なら、そんなものなくなっていいんですよ。