正義とは、悪とは。この議題は語りつくされてきたがいまだに結論が出たためしはない。
ただ一つ言えるのは、そんな単純化できることはない。表裏一体であるという事。そしてだれでもいつだって悪にも正義にもなりうるという事。この二つのみだ。

「バットマン」の悪役として広く知られるジョーカーの誕生秘話を、ホアキン・フェニックス主演&トッド・フィリップス監督で映画化。道化師のメイクを施し、恐るべき狂気で人々を恐怖に陥れる悪のカリスマが、いかにして誕生したのか。原作のDCコミックスにはない映画オリジナルのストーリーで描く。「どんな時でも笑顔で人々を楽しませなさい」という母の言葉を胸に、大都会で大道芸人として生きるアーサー。しかし、コメディアンとして世界に笑顔を届けようとしていたはずのひとりの男は、やがて狂気あふれる悪へと変貌していく。これまでジャック・ニコルソン、ヒース・レジャー、ジャレット・レトが演じてきたジョーカーを、「ザ・マスター」のホアキン・フェニックスが新たに演じ、名優ロバート・デ・ニーロが共演。「ハングオーバー!」シリーズなどコメディ作品で手腕を発揮してきたトッド・フィリップスがメガホンをとった。第79回ベネチア国際映画祭のコンペティション部門に出品され、DCコミックスの映画化作品としては史上初めて、最高賞の金獅子賞を受賞した。

ジョーカーが公開されてから、日本でもその議論はひたすらに繰り返された。
「これはだれにでも降りかかるトラジェディーだ!」とか
「今の貧困層と富裕層を皮肉った日本社会の縮図だ!」とか
「だれだってジョーカーになれてしまうんだ!」とか
そんな意見がある一方で
「これはそこまでの意味を持たない」とか
「これはジョーカーの語るジョーカーの物語だから」とか
「ジョーカーが悲運の悪役であることに失望した」とか
そんな意見もあった。どちらも一理あってどちらも解釈の一つとして受け止められる。



私としては半分前者で半分後者だ。ちょっと欲張りかもしれない。
たしかにダークナイトにでてきたジョーカーと今回のジョーカーは似ても似つかない存在だ。「ダークナイト」のジョーカーほどあんなに頭のキレる人ではないし、動きも明らかに機敏でその道のプロに近い。決して古アパートで母親を介護している貧困者層のそれとは違う人物だ。

それは置いといたとしても、やはり今作の「ジョーカー」におけるアーサーはこちらが観るに堪えないような存在だった。観るに堪えない、というのは非常に富裕層的な視点だが、そこを留意したとしても「観るに堪えない」という言葉は使ってしまう。
細かな設定はともかくとして(これを書いているのは後悔してまだ数日しかたっていないからだ)、アーサーに降りかかる悲劇や地獄はとりたてて特殊なものではない。貧困、障害、差別。そして政府から見放される弱者。よくある展開だ。だけど、いやだからこそ彼はそれがきつかった。だれもかわいそうにすら思ってくれないほどにありふれた悲劇が彼に蓄積されていく。笑っても笑ってもひとつとして良いことは起きない。それが少しずつ彼を狂わせていく。




ジョーカーは完全なる悪だ。極悪非道だ。でも今作のジョーカーは極悪非道とは言い切れない。なぜかというとジョーカーを生み出したのは我々だという罪悪感をこの映画は植え付けているからだ。だからみんな「これは誰にでも降りかかるトラジェディーだ!」という社会から溢れた人を見つけ出そうというポージングを取りたがる。実際はそれすら地獄なのだが、傲慢で、偽善的で、そこへの発信がいかにも自己を救ってくれるような、ある意味キリシタンの贖罪に近い行為である。

私が前者に賛同するのは、これが日本によく当てはまるという事実だ。アメリカだけじゃない、むしろ日本こそ、ああいった暴動は起きないにせよ近しい状況だということがフィクションとして楽しめず没入してしまう要因だ。いや、確かにフィクションなのだが。バットマンが登場しない、悲惨な街、ゴッサムシティという架空の町のはずなのだ。なのにどこか日本の一部が見えてくる。政治家が弱者を切り捨てるところも、名司会者がきれいごとを並べるところも、何一つ社会ネットワークから零れ落ちた人たちの言葉に耳を貸そうとしないところが凄く日本的なのだ。そこで改めて、国や文化の問題ではない、人類の問題なんだと思い知る。



ただこの映画は「告白」(湊かなえ原作の松たか子主演の映画)にも近しい部分がある。それは常に語りが自分であるという事。あそこで見た映像は、途中のキーパーソンである女性の存在で明らかになるが、どこまでが真実かは不明なのだ。
さて、私たちはどこまでを信じればいいのだろう。妄想なのか現実なのか。ジョーカーという不気味な悪の誕生はそこまで丁寧に教えてくれないのだ。