最近ドはまりしている音楽がある。去年末にリリースされたN.E.R.DがKendrick Lamarとフィーチャリングした「Don’t Don’t Do it」という曲だ。スローな入りからどんどん速くなっていく展開。そしてまくしたてるようなケンドリックのライム。その目まぐるしさと勢いに圧倒されながら毎日リピートしている。
歌詞を見てみるとサビで「Don’t Do it! Don’t Don’t Do it!」と歌われるのだが、実はこのフレーズには意味がある。調べればすぐに出てくるが、2016年にアメリカで起きた警官による黒人発砲事件を受けて制作されている。なにもしていない黒人男性を警官が射殺し、その男性の妻が動画を撮りながら必死に「Don’t Do it」「Don’t shoot him!」と繰り返していたことからこのタイトルがつけられた。N.E.R.Dのメンバーはあの「HAPPY」で日本でも一躍有名になったファレルウィリアムスが所属するヒップホップグループ。彼らももちろんこの事件にはひどく心を痛めたに違いない。だからこそこの曲を作った。
We were going home
Waiting for the kids
Schoolbus to arrive
They’re gonna do it anway
Where’d you put the keys?
Wait, is that your phone?
Got a TBI(外傷性脳損傷)
Wait, is that police?
Get out for what?
I’m not your guy
They’re gonna do it anway
Look behind the trees
Tryna to tell you don’t
They’re about to fire
They’re gonna do it anyway
まさに当時の状況を歌にしたもので、ノリのいい楽曲であるにもかかわらずメッセージはとんでもなくソリッドでパンチがある。
元来アメリカに限らず欧米はそういうところがある。問題提起が大好きだ。ちゃんと口にして埋没させない。自分の暮らしも大事だけどそれ以上に同胞や家族、社会を重んじる。
かつてプリンスがグラミーのスピーチで
「Albums, Remember Those? Albums still matter. Like books and black lives, albums still matter.」
(アルバムって存在ってまだ覚えてるかい?アルバムは大事だ。本や黒人の命と同様に、アルバムは大事なんだ。)
と言ってのけたことは記憶に新しい。
他にもビヨンセが2016年のアメフトの最高峰、スーパーボウルでのハーフタイムショー(例年このショーは全米が最も注目する瞬間である)でブラックパンサーを模した格好で登場し話題となった。ブラックパンサーとは黒人の開放を促す組織で50年以上前に登場したものだ。それを復活という形でビヨンセは歌以外のところに訴えを起こした。また同年のケンドリックラマーもBETアワードでパトカーの上に載って「Alright」を熱唱するなど、多くのアーティストがシニカルでクリティカルなパフォーマンスを披露している。
皮肉な形にも、そのアメリカで白人至上主義のトランプが大統領に就任してしまい、黒人ラップ=反差別、という図式の影響力に重みが無くなってしまった部分も否めないが、それでも彼らは主張し続ける。それは音楽にとどまらず、昨年アカデミー賞を受賞した「ムーンライト」といった映画からも強いメッセージが届けられている。今世界は分断し続けているとはよく言われる。白人至上主義、そして反差別主義。
そこに日本はどう絡んでいくのだろう。
おそらく今この話を聞いて理解できるのは音楽が好きなノベルブログ愛読者のみだろう。周りを見渡してほしい。あなたのいきものがかりの好きな友達はこれを知っているだろうか。あなたのジブリが大好きな彼女はこれを知っているだろうか(もちろんいきものがかりやジブリを否定しているわけではなくあくまで例だ)。
かくいう私の今一番近い友人も知らない。そんなことはどうでもいいからだ。そんなことより自分の暮らしや周りの出来事で精いっぱいだからだ。それが悪いわけじゃない。でもそれがないのは明らかに世界からはみ出ているのは自覚すべきである。いま世界中で何かを変えてやろうという動きが起きている中で、好きな人や嫌いな人に終始し、暮らしが楽かどうか、セクハラやパワハラがあるのかないのかどこまでが不倫であの人の不倫は許せてあの人の不倫はダメで、ゆとり世代と呼ばれることにいらだち、ツイッターで少し変わった人を晒し物にしてリツイートを稼ぎ友達に騒がれ、あれがおもしろいあいつはおもしろくないノリがいい悪いセックスだナンパだチ○コだマ○コだ。
繰り返すがもちろんそれがダメではない。だれだって自分の生活が一番に決まってる。じゃあそんな自分だけの世界に新しい視点を入れるの誰よってなったらそれは音楽であり映像であるわけで。
それが圧倒的に日本には足りない。そりゃだれにも知られることなく地下深くで1人世の中を憂う歌や反政府的な歌を歌ってる人は腐るほどいるだろう。でも私が言いたいのはそういうことじゃなくて、テレビに出てみんなが知っていていわゆる職業音楽家、ポップシンガーにこそそういう人がいないということ。私は星野源が大好きだ。何気ない日常を切り取る天才だと思う。西野カナの「パッ」なんかは女の子の気持ちをよく表した素晴らしい歌だと思うし大好きだし週に一度は聴く。でもそれだけじゃ何も世の中は変わらない。だれも今の生活に疑問を呈し覆そうとしない。なんとかやり過ごそうとして切り抜けた証に「私に乾杯」する西野カナに共感するしか能がない。
別に今からアーティスト全員が「クソ世の中」とか「安倍氏ね」とか言って欲しいわけじゃない。何も世の中へのメッセージはそんな直接的なものばかりではない。最初にあげたN.E.R.Dの曲の歌詞をもう一度見て欲しい。彼らは事実をありのままリリックにしただけで一言も白人氏ねだとかトランプ消えろなんて言っていない。YGの「Police Get Away Wit Murder」(アメリカの警察を非難する歌)のような過激さではなく、コンシャスラップと呼ばれる、あくまで問題提起をするだけのものである。ビヨンセはいつも通りヒット曲を歌いケンドリックラマーもまたとても揶揄的だがそれを見事にエンタメに昇華している。ロジックが自殺防止コールセンターの電話番号をタイトルにした「1-800-273-8255」を歌い、「I don’t wanna be alive」で始まり最後に「I finally wanna be alive」「I don’t wanna die」と切に願い生きようと必死に訴えかける。政治的な発言とはこういうものを指す。誰かを貶めたりさらし者にすることじゃない。コンシャスラップこそ今必要とされ、一番受け入れられやすいジャンルなのではないか。
こういうことを言うと「それでも商業として成り立つ大きな市場だから」とか「文化間の差異だ」と言う人がでてくる。知ってるよ。だがそれがどうしたというのか。だったら諦めていいことにならない。
政治的なアプローチは抑圧なんかじゃない。あれはダメこれはダメと言いたいわけじゃない。黒人は黒人だし黄色人種は黄色人種なんだ。日本人に似せようと思えば目を釣り上げるのは当然だし黒人に似せようとした黒く塗るのは普通だ。それが差別だと感じるならそれは自分の劣等感ゆえだ。じゃあコロッケの岩崎宏美のモノマネだって差別的だし明石家さんまのモノマネをする時に出っ歯にするのも差別的だ。でもそれをだれも差別だと言わないのは個別の事象であり本人がそれを差別的だと思ってないからだ。
もっと自由に意見を言えばいい。3.11の時のように。本心から、心の底から伝えたい事を伝えて世の中をよくすればいい。明るい可愛いもので励ましたいと思うならそれでいいし(だからマルモリが流行ったしあれは救世主的なドラマだった)、新たにバンドを組んで熱いメッセージを届けてもいいし、いつも通りでもいいし、売り上げを義捐金に変える活動をしても構わない。みんなが思うそれぞれの正義のやり方で世の中に触れられればいい。
すぐミュージシャンの政治的な発言は叩かれる。それは政治的だから叩かれるのではない。政治性を普段出さず、そんなこと聞くつもりもないのにライブのMCで急に押しつけがましく、そして誰かの受け売りのような粗野な知識をひけらかすから嫌われるのだ。ケンドリックのように、ロジックのように歌で伝えることも、ビヨンセのように無言で訴えることもできるのに、わざわざケンカ売るようなことしかしないから日本のミュージシャンは嫌われる。だから私はそれができるゲスの極み乙女。の川谷絵音は圧倒的に支持するし、お笑い芸人のウーマンラッシュアワーの村本も応援している。出る杭が打たれる社会の中できちんと問題提起ができる人たちは貴重だ。彼らは意見を押し付けない。事実をありのまま白昼の下にさらし、「おいお前ら見て見ぬふりしてるけどこれ問題だろどうおもってんだよ」と突きつけてくる。
メインカルチャーでこれができる人はどれくらいいるのだろう。「シュプレヒコール」で”冷たい声の合唱に希望の度を越えた歓声に”と歌うRADWIMPS野田洋次郎もその一人かもしれない。これをシングルで出せるのは彼のカリスマ性ゆえだろう。
念を押しておくが私は商業音楽がいけないとも恋愛の歌がダメとも思わない。普段の私のブログを見ていただいてる方ならわかってもらえると思うがむしろ商業音楽ばかり聴いている。アイドルも大好きだし海外のポップスも大好きである。だからそんな歌が無くなってほしいなんて微塵も思わない。でも同時にすごく社会に対しての意識も強い。だから社会への、世間へのメッセージが全くないというのもいいとは思わないのだ。ちゃんとすみ分けて使い分けて、そこできちんとした形でハッとさせられるようなメッセージを届けてほしい。そう願っている。
コンシャスラップ、広げればコンシャスソングこそが今求められている。
最後に去年アリアナグランデのライブ中に起きたテロ事件を受け、世界中のアーティストが彼女に共鳴して再びお同じマンチェスターでリベンジライブを行った。その行動力、テロに屈しない力強さをとくとみてほしい。そして何か感じてほしい。この混とんとした世界で何ができるのか日本人は考えるべきである。音楽業界も。