CHAIがタモリにため口だった

先日のMUSIC STATION(2018年5月11日放送)に出演したロックバンドCHAIが、司会者であるタモリにため口を使ったとして炎上した。結論から言えば、今回に限らず最近の炎上は所謂我々の思う炎上とは違って、「CHAIがため口で喋って怒ってる人がいるけどどこがおかしいの!?」という反論の方が大きな声となって結果的に炎上するという形が多い。ようするにきっかけの発言はほんのわずかなのにそれがあたかも大多数の世間の声かのように受け取った個人個人が大きな声で反論をあげるせいで問題が拡大される。仮想敵をつくりだしてしまう。この傾向は「音楽に政治を持ち込むな」問題にも通ずる。ちなみに私は限定的にこの「音楽に政治を持ち込むな」には賛成だが。
まとめると「そんなやつほんまにおるんけ?」というまなざしも必要である、という事。一億分の一の声を検証もせず多くの人が言っているように扱うのは危険でしかない。

さてじゃあちょっとだけこの話題に乗っかってみる。まずは彼女たちの発言を文字に起こしてみる。

あのね、NEOかわいいっていうのは、CHAIがそもそも4人ともすっごいコンプレックスが多くて、見ての通り全然完璧じゃないの。コンプレックスってみんな持ってるもので、コンプレックスはその人の個性でその人にしかないし、でもそれをすごくかわいいと思っていて。だからかわいくない人なんていないと思ってる。そう。だからそれを『NEOかわいい』って言って、みんなをかわいいって言いたいの。

以上がMUSIC STATION内で発言したセリフである。ここから考えていく。

ため口タレント類型化

仮に「タモリにため口」が多くの人を不快にさせていたとする。ため口。昔はこんなことばなんてなかったような気もする。私が物心ついたころにはすでにあったが。ため口、という言葉ができてからため口が可視化されより意識の外側にさらされ嫌悪感を生み出してきた。「ストレス」という言葉が生まれてストレスを感じやすくなったように。ため口を取りあえず調べてみた。
「ため」とは本来博打用語でぞろ目を表す言葉として用いられてきた。それが転じて同級生など、年齢の同じものに対して「ため」と呼び合うようになった。そしてその「ため」同士の口のきき方を「ため口」と呼ぶようになる。これがため口の語源らしい(語源由来辞典より)
ため口を使うタレントは多い。①ダレノガレ明美やローラ、藤田ニコル、藤井リナ、マリエなどのハーフ勢。②小森純、misono、若槻千夏などの世間知らず勢。③石橋貴明やヒロミ、浜田雅功といった無鉄砲勢。④宇多田ヒカル、ももちこと嗣永桃子、本田翼や千秋などの独特なオーラやキャラ勢。の4パターンに大きく分けられる気がする。ひとつずつ紐解いていく。
①のハーフ勢はわかりやすいし、アンケートを取ればおそらくもっともため口の印象の強い部類だと思う。このハーフ勢はロジックが明確だ。まずは日本語が不自由であるという設定。そして英語圏での生活が長く、英語には敬語がないから敬語の概念が乏しいという設定。この二つの設定が世間でのある程度の許しを得ている理由だ。
②の世間知らず勢は、巧妙なパターンとナチュラルなパターンに分けて考える。若槻千夏などは③の無鉄砲にも近い、若くてヤンキーぽくて世間知らずな感じを隠すことなくむしろそれを利用することでズバズバと物申すキャラへと意識的に作り上げてきた。一方のmisonoは④に近い天然系。巧妙な策略はなく、「ウチはウチやん」のスタイルが許されてきた。業界内で。だが今はもうそれを擁護してくれる人が業界にいないので、ため口のトゲトゲしさだけがお茶の間に届き嫌悪感を増幅させてしまっている。
③は芸人に多いタイプ。それをキャラとして確立し、面白さの追求のためにあえて要所要所でため口を使う。このパターンが世間から一番評価を得られやすい。「大物芸能人にも臆することなくため口でツッコめてる、すごい」や「あれができるのは裏では実はめちゃめちゃ礼儀正しいから」といった評価につながっている。
④は、その人自身のオーラやカリスマ性が独特すぎてだれもツッコめないタイプ。宇多田ヒカルはまさにそうだし、嗣永桃子も「ため口」というよりはああいう話し方の変なアイドル、という認識に近い(今でいうと小池美由に当たる)。千秋の不思議ちゃんキャラも本田翼の天然キャラも許されやすい(本田翼に関しては大部分が顔だとは思うが)。
それぞれのパターンの許される理由が妥当かどうかは別として、どの芸能人もため口を使うならどこかに属しているだろう。今回のCHAIはどこに入るのか、と考えれば④の独自の世界観キャラで間違いない。ミュージシャンという特性も活かしているのでなおさらだ。だとしたら宇多田ヒカルが許されてCHAIが許されなかった理由は「まだCHAIがそんな人たちだと認識していない」からだった、以上である。実績も知名度もない人間が急に出てきて「私たちため口きくタイプですから」と言われてもはいそうですかと納得できない人が多かったのは理解できる。それもこれも時間が解決してくれる。いつか誰も話題にしなくなるくらいに馴染むまで時間をかけて使っていけばいい。

さかなクンとCHAI

逆の目線から考えてみる。その放送日には、CHAIのほかにも、さかなクンが出演していた。彼はため口とは程遠い人間である。魚にはチャンづけをするし、12歳のダンサーにもさん付けをする。肝心のタモリには様呼ばわりなんだからどれだけ腰が低いのかわかる。かといってだからCHAIは失礼、さかなクンは崇高な人間だと判断するのは浅いと思う。結局はさかなクンもキャラなのだから。彼はとにかくどんなものにも敬意を表することでキャラを確立させてきた。だとしたらCHAIがため口を使うのもさかなクンが様付けでタモリを呼ぶのも基本的には同列である。そこに優劣はない。お互いがそれなりのキャラクターを演じている(意識的にしろ無自覚的にしろ)。CHAIに「ため口なんて失礼だ!」と憤るなら、同じ熱量で「魚にちゃんづけで人間の子供にさんづけとは人間をなんだと思ってる!」と憤怒すべきだろう、と思う。


人はどうやって敬語を運用するのか

ここまで長々と語ってきたが、今度はため口ではなく、敬語について考えてみる。なぜCHAIは敬語を使わなかったのか。キャラクターだから、という今までの話はなかったことにして、もし仮に彼女たちがナチュラルに、あるいは意識的にため口を選択した理由があったとしたらそれは一体なぜなのか考えてみる。

それを考えるにあたり、ひとつの論文を参考にさせてもらった。
奈良女子大学 森山由紀子「日本語敬語表現の史的展開についての研究 -尊者定位重視の敬語から自己定位重視の敬語へ」1996年3月7日
http://hdl.handle.net/10935/2872 より
敬語には「絶対敬語」と「相対敬語」が存在する。前者は「場面や人称によって左右されない敬語(2p)」で社会的な階層的序列関係が重視される。要するに相手の人物の身分や地位、家柄が大切で、たとえどんなクソ野郎でも客観的な事実に基づいて敬語を使う。そこに話し手の意思はない。一方で相対敬語は、話し手側の意識が優先される。「恩恵・利害・親疎・改まり、その他の要因を総合的に勘案した上で敬語が運用されるようになったという見方(3p)」と述べている。そして今は昔より相対敬語が強まっている。会話の時の状況を発話側が判断して適宜敬語を使っていくスタイルだ。確かに、上司や近所の目上の人には敬語を使うがホームレスのおじさんやレストランの店員にはタメ口をきく人も多いと思う。相手がどうであるか、ではなく自分が相手との関係をどうみるか、で敬語は決まる。言葉を借りると「話し手の<自己>に対する認識の在り方を表現する方法(14p)」に移行してきたと言える。
もっと言えば、謙譲語に関しては相手が同じでも条件が違えば発動するときとしない時がある。本文の例題を引用する。
a.太郎は先生に手紙をお送りした。
b.犯人は先生に脅迫状をお送りした。

bは相当気持ちが悪い。謙譲語のルールは受け手が話し手よりも上位である必要性があると同時に主語よりも上位である必要があるので両者とも問題ないはずなのに。話し手が「先生>犯人」とみなすのは普通だから。でもこれが成立しないのは「話し手の認める敬譲意識に沿ったもの(161p)」であるからだと述べられている。そしてその「意識に沿ったもの」とは関係性ももちろん、具体的な行為の質も問題になるそうだ。行為にも敬譲関係がある。言われてみればそりゃあそうだ。脅迫状を送るという行為に敬意があるとは思えない。でもこの「思えない」という判断は話者が行っているというところが今回のみそ。

あらためてCHAIの発言を見てみよう

あのね、NEOかわいいっていうのは、CHAIがそもそも4人ともすっごいコンプレックスが多くて、見ての通り全然完璧じゃないの。コンプレックスってみんな持ってるもので、コンプレックスはその人の個性でその人にしかないし、でもそれをすごくかわいいと思っていて。だからかわいくない人なんていないと思ってる。そう。だからそれを『NEOかわいい』って言って、みんなをかわいいって言いたいの。

冒頭、「あのね」から入る。ねえねえ、聞いてよ、というフランクな入り。決して目上の人には使わない言語ではある。このサイトでは、子供っぽく性格が素直な人に多いと書かれている。
でもよく見ると、ため口、と言われるような要素はない。なぜなら文章の中に、補語関係にあたる人や受け手がいないから。CHAIはずっと話して=主語、であり自分語りに徹している。つまり尊敬語も謙譲語も入れるスキマなどない。もし仮にここに、”タモリ”が受け手に登場していたら、、、それはそれで彼女たちはため口だったとは思うが。
自分語りをしている以上、尊敬語も謙譲語もないとするならば、なにが私たちを不愉快にさせたのか。それは、丁寧語の欠落だったことは明白だ。「思うんです」とか「言いたいんです」と言えば問題なかった。つまり、タモリにため口なんて失礼な奴だ!というのが問題なのではなく、テレビという公の場で相応しくない言葉遣いをしていたことが問題だった。”タモリにため口”ではなく”テレビでため口”。これが原因だと思う。

ウチ/ソト、のボーダー

CHAIは相対敬語を使用した。タモリという絶対的に地位も名誉も年齢も上の立場である存在も「恩恵・利害・親疎・改まり、その他の要因を総合的に勘案した上で敬語が運用されるようになったという見方」に従って、ため口を選択した。それは、尊敬する/しない、の二択ではない。タモリを尊敬に値しないと判断したから彼女たちはため口を選んだわけではない。それならタモリ”さん”とは呼ばないし、もっと(無礼な態度などで)問題になっていたはず。彼女たちは、ウチ/ソト、の選択を行っていた。私たちがおばあちゃんや、昔からよくしてくれる近所のおじさんにため口で話すのは、身内の関係に取り込んでいるから。身内=親疎・改まり、に当てはめることができる。CHAIにとってタモリも友達も、ウチの関係性に取り込んでしまう。それは彼女たちの選択であり、私たちが糾弾するのはひとまず違う。ただし、これが社会のルールで聞き手がイラッとしてしまうのならまあ変更する余地はあるだろう。事実ダレノガレ明美などは厳しい糾弾にあい、「楽屋では敬語使ってるから!」と弁明する羽目にもなった。なのでCHAI自身がそのウチ/ソトのボーダーを改めるか、こちらがそのボーダーを理解してやる必要がある。どちらが正しいとかはない。
もうひとつだけ引用すると「尊者定位重視(224p)」と「自己定位重視(〃)」のふたつの認識がある。「尊者定位重視」の認識とは、自分の価値観に基づき、相手の価値を判断することである。あの人はやさしく接してくれるから、あの人は厳しいから、と言ったような価値判断だ。一方の「自己定位重視」の認識は自分の位置を定めてそこから社会的な階層や身分などで判断する方法である。自分はここで、自分より上は兄と両親と祖父母と学校の先生…。といったように。もちろん話し手である「私」が変われば敬語を使う相手も変わるが、順番が変わることはない(両親の立場なら自分より上は祖父母のみになるとか)。「恩恵・利害・親疎・改まり、その他の要因を総合的に勘案した上で敬語が運用されるようになったという見方」が複合的に活用されてその順序は決まる。決してこの二つは相反するものではないが、多くの人は「自己定位重視」の敬語運用を選ぶだろう。パワハラをしてくる上司はため口で、一緒にランチしてくれる後輩に敬語を使う人はいないと思う。
そう考えるとCHAIはもしかしたら「尊者定位重視」の敬語運用をはかっているのかもしれない。そもそも敬語が使えない(使わない)可能性はあるものの、こうしたどこ(誰)を基準に敬語を使うかのずれはおそらく人に違和感を抱かせる大きな理由になりうるはずだ。

まとめ

最初に言えばよかったのだが、わたしはCHAIのため口問題は、どうだっていいと思っている。でも「タモリにため口!」という非難も「CHAIは昔からこうだから!」という擁護も、どうも腑に落ちないものがあった。昔からそのスタイルだから初めて見たお前が慣れろっていう理屈も中々横暴だと思うし、上述したように”タモリにため口”ではなく”テレビでため口”が気にくわなかった、という見解も示した。もちろん「ブスだから」という別のベクトルの現実的な考察もあるが、それは今回はあえて排除した。
あと、この記事内で引用した論文は私個人が勝手に検索して引っ張ってきたもので、勝手な解釈によるものであることは留意してほしい。決して論文の要約であったり筆者の代弁をしているつもりはなく、むしろ筆者の主張とはズレた、誤解を招くような引用をしている場合もあるので、ここに追記しておく。
CHAIのため口はさかなクンと同列なのになあ、というのが私の総括である。おわり。