いい奴だけどおもんないのってちょっと悲しい
昔からお笑いが好きだからか、いわゆる大阪人の気質からなのか、”おもしろい”ということだけには結構敏感だ。自分は大して面白くもないのに、他人のおもしろさはすぐ評価したがる。ダテにお笑いを昔から見ているわけじゃないので、その辺は結構自信ある。繰り返すが、できると知ってるは違い、私はチンカスほどにおもしろくないので今から全て棚に上げて話すつもりだ。
ところがおもしろさというのは決して技術だけのものではないんだと知るようになる。その人のキャラクターも大事だ。それで得することも損することもある。周りから好かれている人は数割増しで笑えてくる。不思議でもない。嫌いだと思ってる奴はますますつまらなく感じる。つまらなくあってほしいとも願っているし、事実つまらないからどうせ次もつまらないだろうとタカをくくっている(たまにそれでも唸らざるを得ないほど面白いことを言われた時には心の内はとんでもないことになるのだが)。
とはいえ、たとえどれだけ人が良くてもつまらない奴はつまらない。「いい奴なんだけれどおもんない」という評価が下される。一方で「おもんないけどいい奴」という論法もある。同じことを表しているのに評価は二分されている。前者は結論”おもしろくない”ことが強調され、あまりその人にとって魅力的に映っていないことが多い。後者は”いい奴”がとどのつまりになるので、なんだかんだ好きなんだなという気持ちが伝わってくる。この差って大きいと思う。
「いい奴だけどおもんない」と「おもんないけどいい奴」。同じ言葉でも前後をひっくり返すだけでその人の隠された真意が浮かび上がってくる。
Aqua Timezが解散することとなった。私と同年代の20代後半の人は結構聴いた人もいたと思う。「千の夜をこえて」や「決意の朝に」など音楽に興味のない人たちにも届くような音楽を作っていた人たち、が故に多少舐められがちだった気もする。事実わたしは全く興味が無かった。Greeeenとの差を見つけられなかったし、そんな意義すら自分の中にはなかった。
ヘタウマという強み
だけれど彼らが残した功績は少なからずある。例えばそれは「ヘタウマ」というジャンル。ボーカルの太志の歌声は上手と言い切るにはいくばくかの不安があった。それでも多くの人たちを魅了することができたのは、バンドだったこと、歌詞がよかったこと、ヘタだからこそ思いが伝わったこと、が挙げられる。まずバンドスタイルなのが大前提として救われている。ソロシンガーならデビューすらできなかったかもしれない。自分で詞を書いて音楽を作るバンドマンだからこそデビュー出来た。歌詞はストレートででも安易になり過ぎないような、「伝わるけどバカっぽくない」ラインを非常にうまく通り抜けていった。そして何よりヘタだったことが実直さを増幅させて、歌詞のリアリティをぐんと増した。彼氏がカラオケで歌ってくれてるような、それくらいAqua Timezの歌は私たちに近い存在となった。それくらい彼の歌にはリアリティーがあった。そのパワーは他のアーティストにはある意味で当然ながらなかった。
ここでふと思ったことがある。「ヘタウマ」はあるけど「ウマヘタ」は無いよな、と。上手いけど下手くそ、というのはなんとなく破たんしている。上手いことに越したことはない。でも上手いけど伝わらない歌手ならいる。いる、というかそう認識されている人ならいる。有名なのがMay.Jだと思う。「カラオケの女王」という称号もあり、上手いかもしれないけれど全然響かない、とネットでは散々叩かれた。まあそんなもの何の根拠もなく歌声そのものよりも周りについたイメージや印象で全て語られているので、May.Jが本当に心に伝わらない歌手だとは思わないが、少なくともそう世間からは認識されてしまった。認識されてしまうと、もう回復することは難しい。どれだけ良い曲を歌ってもムダだ。まずはイメージを変えなければならない。となると相当大変だ。May.Jは損な役回りを任されてしまったとつくづく思う。
ウマヘタとヘタウマ
私たちはアマチュアや売れないシンガーをみると大抵”上手いけど響かない”と決めつける。これこそ「ウマヘタ」の正体である。でも「ウマヘタ」は「ヘタウマ」と同じ、最後は聞き手の感情に委ねられているが、「ウマヘタ」はかなり眉唾物であることは今言った通り。「ヘタウマ」は、理由のないイメージだけでついてしまうことがあっても、でも最後はそのシンガーの実力に寄り添っていることが多い。太志は歌詞で共感してもらい、メロディセンスで「なんかわからないけど好き」と言ってもらえる力を持っていた。だから「ヘタウマ」が成立した。逆に言えばだからひとたび彼が自分の歌詞やメロディを剥ぎ取られた場所に立つと、やり玉にあげられ厳しい糾弾を浴びる。いつかのサッカーでの国歌斉唱が今でもyoutubeに挙げられているのはあれが彼のオリジナルソングじゃなかったからだ。一音たりとも音の外せない国歌斉唱は彼の持ち味を殺してしまった。
でもMay.Jは「ウマヘタ」と呼ばれない。褒め言葉じゃないから。「ウマヘタ」って結局はヘタであることが強調されている。でも彼女のように「上手いけど響かない」と認知されているアーティストが一定数いることは事実だから、なんらかのそれを言語化したものは欲しい。特に私個人の感覚として、”歌が上手い”という触れ込みのアーティストを、それだけで好きになることはない。むしろ歌がうまいことを露骨にアピールされると少しヒく。本来ならば普通の事なんだけれど、めっちゃ歌をうまく歌おうとしてるその姿になんとなく遠慮してしまう。それよりもどんな歌声でどんな歌い方と想いが込められているかが自分の評価軸になる。そして歌は上手いけどそれだけだよね、という歌手は「ウマヘタ」の枠組みに入れてしまう。でもそんな言葉は存在しないので、「あんなのカラオケじゃん」でとりあえでずまとめる。歌がうまいことはこちらが感じ取りたいと思っている。だから押し付けられるとスッとひいてしまう。そして素直に受け止められなくなる。だから心に響くスキマが閉じる。太志にはガバガバだったものがMay.Jではぴったりと閉ざされている。「ヘタウマ」と「ウマヘタ」にはそういった大きな隔たりがある。
同じ熱量で作ることが出来ない
最後にAqua Timezについて想いをもう少し馳せてみる。彼らは「バンドメンバー募集掲示板 with9」という掲示板サイトで募集をかけて集まったことから始まる。2005年にインディーズでCDを出し、2006年メジャーデビュー。いかにも2000年代を駆け抜けてきたような模範的なバンドのように思う。ファッションも含め。
タイアップも積極的にこなし、ロックというカテゴリーからは外されてしまうこともしばしばある。2度の紅白歌合戦の出場も輝かしい功績の一方、まだ00年代にはあまり「ロックミュージシャンが紅白に出る」ことが単純に称賛された時代でもなかった。しかし2016年から2年連続でROCKIN JAPAN FESにも出演しているし今年ももちろん出演予定だ。ロックとポップがそれなりに棲み分けされていた時代を経て最後にちゃんとロックな場へ戻ってきたことに感慨深くなっているファンも少なくないはずだ。そう思うとあの時代(00年代)はまだまだ閉鎖的な音楽シーンだったと感じる。私は彼らのファンではなかったが、時折流れるタイアップミュージックにそのドラマを見てもいないのに好きだったこともあるし、好意的に捉えていた。決して力にはなれなかったけれど、こういうバンドがきちんと生き残れる環境も大事にしなければと思う。ロックとポップスの邂逅が果たされつつある今だからこそ輝けるものがあったはずだ。
ただ、アルバムを作り終えたとき、メンバー全員、いつもとは感覚が違ってました。
全てを出し切ったような、燃え尽きたような感覚でした。それから、全員で何度も何度も話し合いました。
話し合いの末、今までと同じ熱量で、この先Aqua Timezの音楽を作ることが出来ない、
そして、そうなった以上、活動を続けていくことは出来ないという結論に至りました。
彼らは最後にこう締めくくった。同じ熱量で活動ができない。私はバンドを組んだことも音楽を作ったこともないので邪推すらできないが、おそらく「やりきった」感覚があったのだろう。でも最後のアルバム「二重螺旋のまさゆめ」はどんな他のバンドより革新的で良い音楽への貪欲な姿勢があった。正直舐めていた。先述したように、舐めていたのは音の軽さもタイアップの多さも歌詞の素直さもプロモーションも全てを指す。全然信念とやらを感じなかった。当時10代だった私には彼らの思いを推し量ることなど出来なかった。でも紅白出場が途絶え、次第にメディアから取り上げられる回数も減ってきて2000年代に取り残されたような印象を多くの人に持たれたとしてもライブ活動を続け、そしてこうやってこんなに面白いアルバムを最後に作った事で私はようやく彼らの「信念」にたどり着くことができた。おもしろいことに貪欲に、あたらしい化学反応を求めて、ロックというジャンルに縛られずに自由にそして丁寧に音楽を作ってきたことが今作でよくわかる。別に彼らを過剰に持ち上げるつもりも解散に便乗してファンでしたと名乗るつもりもない。ただ最後の最後にめっちゃいいアルバムができていると個人的に思っているので一回聴いてみてほしい。