ミルクボーイ構文

2019年のM-1グランプリのチャンピオンであるミルクボーイは、ある一つのフォーマットを考え付き、そのたった一つの神の発想であらゆる猛者を蹴散らしていった。どれだけ才能と実力に差があっても、そのアイデアひとつでいくらでも倒すことのできる世界だからお笑いはおもしろい。実力通りな世界ならM-1グランプリはここまで続いていないだろう。

一つのテーマについて「○○やないか」「ほな○○とちがうか」といったりきたりする漫才はある種革命的で、このフォーマットを利用すればどんなものでもテーマになりうる。そしてその可能性は限りない。

ミルクボーイの素晴らしいところは、この互換性が効く仕組み自体の発明だからだ。それはダブルボケを発明した笑い飯でも、「でもなあ」と不安を吐露してむちゃくちゃな方向に進めていくブラックマヨネーズでも同じ事が言える。既存のフォーマットに従うのではなく、それ自体を作り出すことでその道を走ることができるのは自分たちだけになり、走り方もそのペースさえも自由になるからだ。

そして、その効果は他にも波及していくのが今の時代。その互換性は同時にネットミームにもつながっている。だれでも改変でき、そしてそのフォーマットにさえ従えばある程度の笑いは担保されているのだから、みんなこぞってミルクボーイのネタを使っていく。

しかし、ミルクボーイは単純にずさんな使い方をしていたわけではない。何度も何度も試行錯誤し、細かくルールとセオリーを決めているからこそあそこまでの爆発力を生む。それを理解しないまま使うと、単に真似をしただけのつまらない改変ネタが量産されるだけだ。

ネット(特にここではtwitterを差す)の人たちの改変は、大阪弁ではなく標準語でやっていたり、「ほな○○と違うか」の後のフォローがごっそり抜けていたりするので、さほどおもしろくない。それは大枠だけをパクって中身を何も考えていないからだ。もちろん、みんながみんなおもしろくしなければならないなんてことはなく、単純に遊び感覚でやっているだけの人もいるだろうしそれを咎めることはないが、ナイツの塙が「だれにでもできるネタ」と評したのは文字通り”良くも悪くも”そういうことを差していたのだろう。

例えば、現EXITの兼近が以前組んでいた”ぷりずん。”というコンビにミルクボーイと近いネタがあるが、これがミルクボーイと同じ結果を生まず結局解散してしまったのは、ミルクボーイが単なる大枠のフォーマットだけで笑わせているのではなくその後のフォローやツッコミの巧みな言い回し、大阪弁を駆使した子気味良いテンポなどち密な計算のうえで成り立っていることのなによりの証左になるはずだ。


sumikaの示すテーマ

話が長くなったが、ここでタイトルバンドに回帰する。
sumikaというバンドがいる。特に古くから知っていたわけではないが、それなりに前の路線の頃からは何となく名前は知っていた。前の路線、というのは、「ふっかつのじゅもん」の頃のような楽曲を披露していたときの事だ。
別に前がよかったとか今がいいとか心の底からどうでもよいし、むしろファンがもめたがっているが私に言わせてみればどっちにしても大して変わらないだろとすら思っている(後にそのことについても触れる)。今回の問題はそこではなく、sumikaのあのアットホームな温度感を作り上げる所作はすごくミルクボーイ的だなと感じるのだ。

2013年に発売されたEP「新世界オリハルコン」ではポップロックを意識したような曲調で、ギターのソロの使い方は確かに2010年代のソレだと思う。「雨天決行」のような王道ロックは果たして他と差別化できていたかと言うと謎が多い(すごくポップで馴染みの良いメロディだと思うがリフがつまらない)。

その翌年に発売されたフルレンスアルバム「I co Y」に収録されている四つ打ちの「ふっかつのじゅもん」も、鋭いカッティングで小気味よさを生み出している「MY NAME IS」も実にフェス文化的な凡庸な曲が並んでいる。ただ、このころから「リフレイン」のような楽曲もあり、その片鱗は見せている。

-今作『I co Y』のタイトルの意味を教えて下さい。

荒井智之(以下 荒井 Dr.):”I care of You”という言葉の略からタイトルが付けられています。

片岡:例えば会社の中の部署であったり、大きな組織の中にある小さな組織の中に郵便を送る際に”C/O(care of)”と表記して海外などでは郵便を送るのですが、その言葉を使って”あなた様方 私行き”という意味で、自分達の分身である”音楽”というモノが、あなたの中に届いて、”あなたのカラダの一部になってくれますように。”という願いを込めて、”あなた”の中に”私”(分身)は届いていますか?と尋ねるように、手紙を送るイメージでこのタイトルを付けました。

-今作のジャケットも郵便物を想像させるようなジャケットになっていますね。

片岡:作品タイトルが手紙をイメージして付けたものだったので、デザインもそこにリンクさせて、消印のようなスタンプを各曲ごとに制作したり、細部にも手紙を彷彿とさせるようなアイデアを散りばめたアートワークに仕上げました。
今作のタイトル『I co Y』には”憩い””安らぎ”という意味も込められていているので、自分の安らげる居場所(HOME)をイメージした、家のオブジェクトをメインジャケットに使用しています。
撮影場所が外なのは、場所を選ばず、どこにだってHOMEや”憩い”は創れるという意味も込められています。

黒田:オブジェクトに色を塗らず、真っ白にしたのは、自分のHOMEが必ずしも自宅ではなく、人によって安らげる場所が違くても良いと思いますので、聴いてくれる方々に、自分自身で色を塗ってもらえればと思っています。

これはそのアルバムが発売されたときのインタビューである。「ふっかつのじゅもん」のMVのコメント欄では「この頃に戻ってほしい」が散見されるが、もうこの時点で今のsumikaのコンセプトである”HOME”は形成されていた。彼らがその時から相当コンセプチュアルなバンドであることは明白である。

また、彼らは「ふっかつのじゅもん」に対してもこんなコメントを残している。

-この楽曲のMVは何も無い白い背景の中での演奏シーンと、とてもシンプルなモノになっていますが、そこにはどういった意図がありますか。

片岡:白バック・4つ打ち・和メロと、現代音楽シーンに溢れ返っている材料を、意識的に取り入れて制作しました。
自分達の音楽を料理に例えるならば”ナタデココ”や”ティラミス”のように今まで食べた事の無いような新しいモノを生み出している訳ではなくて、”カレー”や”ハヤシライス”のように誰もが作れるありふれたモノだと思うんです。
新しいモノを生み出すことは難しくて評価される事だけれど、ありふれたモノを”美味しく”作るという事もとても難しい事だと思っていて、自分達の音楽はそのような、”ありふれているけれど美味しい音楽”だと思っています。

つまり、「ふっかつのじゅもん」があの当時の彼らを示すアイデンティティだったわけではなくむしろカウンター的な要素を持っていたとなるなら、「あの当時に戻ってほしい」と願うファンは少々見当違いになってしまう。そもそもあれはカウンターである、というのがこの発言からの結論である。

休養、そして復活

その後出した2015年のEP「Vital Apartment」ではピアノの音は強くなれど、KEYTALK的なフェスアプローチの強い楽曲も多いが、決定的なのは2016年のアルバム「アンサーパレード」だと思う。
代表曲でもあり、一部のロックファンからは結婚式ソングにもなっている「Lovers」など、今のsumikaの方向性を決定づける作品が並んでいる。

──今作はこれまでと比べて全体的に楽曲のテンポがゆったりとしてますよね。

片岡 意識面が変わったのが大きいかもしれません。これまではギターが2本いるから2本入れなきゃいけないし、キーボードも入れなきゃいけないし、生ドラムがいるべきだしっていう、全員の音を絶対に入れなきゃいけないっていう使命感みたいなものがあって。半ば強引にでもその音を入れようとしてたんですけど、今回は曲がよくなることを一番に考えたアルバムなんです。例えば「Lovers」はエレキギターのパートがほとんどないですし。

──ストリングスや鉄琴などさまざまな楽器の音色が入っていますよね。

片岡 それがちゃんと聴こえるように、いい意味で隙間を作ることを考えていって。そうしたら自然にテンポが下がっていったんですよね。

このミニアルバムが出る前、ボーカル片岡の体調不良により約4か月の休養を余儀なくされたsumika。もちろんその余白がもたらした影響は大きいだろう。

──ほかのメンバーの皆さんは、活動休止からこのアルバムの制作に入るまでに、どのような心境の変化がありましたか?

荒井智之(Dr) バンドとして活動休止する前に健太が休養期間に入って、そのあと3人でプロモーション稼働したり、ワンマンライブを東名阪でやらせていただいたり。そのときに今まで健太がsumikaのボーカルとして矢面に立って、ずっと受けていたプレッシャーだとかを各個人が体感することができて。実際自分たちがその立場に立つと「こんなにも今まで大変なことをやっててくれたんだ」っていうことを身に染みて感じました。今まで以上に健太に対して感謝しましたし、それこそ愛情というものがメンバー間に改めて生まれて。健太が休んでる期間中、おがりん(小川貴之)と隼ちゃん(黒田隼之介)は健太が戻ってきたらすぐに動き出せるようにずっと曲を作ってくれていたんです。

詳しいいきさつ等はファンの方の方がよく理解しているだろうが、やはり人が欠けることでバンドの結束力は高まる、ことが多々ある。それは個人であれ組織であれ同じことが言えるだろう。

それは音源だけではなく、ライブでもコーラス隊にストリングスカルテットを加えた10名編成で行ったりなど、その表現の幅はここで一気に増えた。この「意識面が変わった」ことがsumikaの「HOME」というコンセプトをがしりと固めるきっかけになったのかもしれない。

その後のアルバムタイトルは「familia」、そして「Chime」と、もうその方向性に迷いがない。星野源が大病を患ってから、とにかく明るく楽しくしたいと方向性を大きく舵を取りより大衆的で深い音楽にアプローチしていることからも、転機をプラスに変える力を持つアーティストは底知れず強いなとしみじみ感じる。

──どうして「Chime」だったんですか?

片岡 前作は「Familia」というタイトルだったんですが、sumikaの活動スタンス、基本的なマインドとして、「sumikaというバンドを“おかえり”“ただいま”と言える空間にしたい」というのがあって。「僕らはいつもここであなたの帰りを待ってるよ」という場所を作りたいというか。その根底は今も変わってないんですが、今回のアルバムでは、自分たちの足で歩いていって、sumikaに触れてくれた人たちの家のチャイムを押したいと思ったんですよね。その理由は、制作やライブを通してメンバーの結束が強くなったこともあるし、あとはチーム全体のつながりもよくなったのもあって。sumikaに足りないところ、弱いところを助けてもらってきて、チームがより誇れるものになったというのかな。みんなのおかげでネガティブな弱さがなくなった自覚もあるし、「今だったら、自分たちの足で進んでいけるな」っていう。


sumika構文

長くなったが、ようやく戻ってきた。彼らはこうして今のコンセプトを築き上げていた。追ってきた通り、”HOME”は彼らが決して最近思いついたテーマではないということ、そこに大きな気づきを与えてくれる事件があったこと、それをプラスに変えられる結束力があったこと、それらは全て今のsumikaに収束している。
思えば”家族”とか”くつろぎの場所”をテーマに掲げるバンドはいない。それはある種ロックという体制からは外れるからだ。いきものがかりが「帰りたくなったよ」で家族が、あるいは恋人が待つ場所への郷愁の思いを歌ったように、sumikaは「さあ今日も始めましょうか、昨日挟んだ栞の続きから」と共に人生を歩む覚悟を宣言し「夜を超えて闇を抜けて迎えにゆこう」と受容の構えを見せているのも近しいものを感じることができる。どちらかと言えばいきものがかり的なアプローチなのだ。

この受容の姿勢は単に大枠だけ類似させてもその温かみは決して生まれない。sumikaが”HOME”たらしめる理由は歌詞の一つ一つの所作であり、バンドサウンドにこだわらないおおらかなサウンドメイキングであり、なにより片岡のまろやかでコクのある深い歌声にある。そこまであって初めて「おかえり」や「ただいま」が言える。そのフォーマットだけを盗んだところでなにも化学反応は起きない。

そこがとてもミルクボーイ的だなと感じるのだ。言葉遣いから語尾まで、きちんと意味のある、世界観を紡ぎだしてこそのsumikaの”HOME”でありsumika構文は他のバンドには通用しない。それだけしたたかなバンドであると断言できる。

まとめ

食をコンセプトにするバンドもいれば、お祭り騒ぎがコンセプトのバンドもいる。その中で温かみとか優しさとか帰る場所みたないものを提供するバンドはとても貴重だし、この傷んだ世界には不可欠な存在でもある。それを「つまらない」と切り捨てるのは簡単だが、sumika構文の乱用が避けられるならすばらしいことこの上ない。