パートナーシップ宣誓

2024年7月14日、3人組バンドSHISHAMOのドラムを務める吉川美冴貴さんがお付き合いしている女性の方とのパートナーシップの宣誓を報告した。

 

 

まずはとにかくおめでとうと祝福を送りたい。そして次に、このアクション自体に賛辞も送りたい。この発表自体にどういう意味があるのか、どんな影響があるのかも絶対に理解しているはずだし意図もあるのは明確なので、それを十二分に汲みたいと思う。

海外では本当に多くの人が自分のセクシュアリティを公表している中で、日本ではなかなかそこのスピード感はないものの、確実に理解は広まっているし声をあげていく機運は高まっていると思う。もちろん自分のセクシュアリティは極めてプライベートなもので、そもそも世間に公開する必要もさらされる理由もなく、それは異性愛の人でも同性愛のひとでも等しく守られるべき内容ではある。しかし現実問題としてマジョリティにマイノリティの実態を理解してもらうには誰かがその存在を知ってもらうために声をあげる必要がある。どんな事象だってそうやって広がり浸透し社会に溶け込んできた。彼女自身もこうした声明を出すことは誰かの後押しになれば、機運が高まれば、という願いがあるのかもしれない。「いつか、結婚できる日が来たらもっともっと嬉しいです」と語るそのポジティブさはムーブメントを突き動かす大切な原動力となるし、もはやそれを拒む理由などないことは世界での自明の事実としていま示されている。

現にこのポストに集まるのは賞賛と祝福のコメントばかりだ。本当にごくまれに心無い人の悪質なコメントを見かけ、その人のアカウントを覗けばもう人として体をなしていないレベルのしょうもない捨てアカウントばかりで、それだけでも十分結論は見えているのではないだろうか。

 

”僕に彼女ができたんだ”は同性愛の歌か

もう一つ気になることが。ある人が以下のようなポストをしていた。

 

 

いずれこの方がポストを消去するかもしれないので概要を説明すると、SHISHAMOの初期の代表曲、”僕に彼女ができたんだ”が、実はその「僕」は(作詞を担当した)吉川自身(あるいは吉川と同性の女性)のことで、レズをカミングアウトしていない二人の歌なのでは、という視点を書いている。

なるほどと思わされる視点で、でも確かこの曲の解説ってもうだいぶ昔にされていて結構フィクション性の強い小説的な歌じゃなかったっけ、とも思った。ラジオでなんかいろんな曲の解説を本人たちがしていた気がするが探してみたけど見つからず、インタビュー記事も洗いざらい目を通してみたが明確に言及している記事も見つけられなかった。どなたか本人解説があれば教えてほしい。

また、この”僕に彼女ができたんだ”にはアンサーソングが存在し、それが”僕、実は”に当たる。

EMTG:松岡さんがあげたもう1曲、「僕、実は」は、吉川さんの作詞曲ですよね。

吉川:このアルバムの中ではアグレッシブな曲になんですけど、歌詞は前作の「僕に彼女ができたんだ」の続編になってるんですね。「僕に彼女ができたんだ」の“僕”が、「僕、実は」の“君”で。彼女と別れて落ちこんでる“君”が“僕”に毎晩電話をかけてくるんですけど、別れたあの子が、「僕に彼女ができたんだ」の“彼女”で、「僕、実は」の“僕”の彼女だっていう。

宮崎:友達の彼女をとっちゃった話だよね。吉川:とっちゃったけど、そんなに悪いと思ってないっていう歌です。

宮崎:(小声で)最低だね。

松岡:私もこういう人は嫌いです。彼女をとっちゃうだけならまだしも、落ちこんでる友達の話を聞く前にいうことがあるんじゃないか、ひどいことするなと思いました。

宮崎:裏切りだよね。

吉川:あははっは。ひどい言われようですけど、私としては、彼女をとられた人の目線で書くよりは、とっちゃった人の視点で書いた方がより皮肉感というか。やだなっていう感じが出たらいいなって思ったんですよね。

「ライブでも曲の良さを伝えたい。」SHISHAMOの新アルバム『SHISHAMO 2』!

こうしてみるとやはり創作性が高い気もする。もちろん可能性としては「吉川本人の体験で指摘通り女性同士の恋愛について語っているが表向きには男女の恋というフィクション設定ということにしている」ことも考えうるが、私はそれを「答え合わせ」と決めつけてしまうのも少し違う気もしているし、それで勝手に盛り上がって消費してしまうことにももう少し慎重になった方がいいように思う。パートナーシップはエンタメではないし、ましてや「レズ」という言葉は他人の恋愛を消費する言葉になりかねないから。

 

大前提として歌詞の受け取り方は人それぞれ自由であるべきでどう捉えてもいいものだ。ただ限定することにはどちらにせよ慎重になった方がいい。今回の例で言うと、吉川さんはあくまで今現時点での交際を公表しただけで過去の恋愛歴を公表したわけではない。人は常に移り変わるし、ジェンダーアイデンティティも性愛の対象も人は成長とともに変わっていくことはなんらおかしな話ではない。私自身も特定の男性俳優にときめいて仕方がない時があったが今はヘテロセクシュアルだし、そういった揺らぎは当然ある。今そうだからといって昔からそうだとは限らないし、もちろん昔からそうだったかもしれない。そんなことはこちらが勝手に決めつけることでもないので、だからこそ「私にはクィアソングに聴こえます」は大歓迎だが「この曲はクィアの歌でしかない」という断定は避けたい。あくまで可能性の一つとして残しておくことは大切だろう。

ちなみに、特にクィアソングとして明示された楽曲でなくてもクィアのアンセムになった例というのもあるし、クィアの人たちがその曲をどう捉えるかによりけりだしそれはそれで構わないと思う。日本には圧倒的にそういった歌が不足して、特に当事者たちが歌う歌が海外に比べて少ない中で、”僕に彼女ができたんだ”がこれからのクィアアンセムです、としてしまうのもありなんじゃないかなとは思う。誰かを勇気づける解釈であるならそれは素晴らしいことだし。

 

SHISHAMOとフェミニズム文脈

最後に、SHISHAMO自身の最近の楽曲の傾向についても言及しておきたい。

たとえば『恋の痛みを知っているあなたへ』の「忘れてやるもんか」は多分、SHISHAMO楽曲のなかでもずば抜けて“痛い”曲なので、これを1曲目に選べたのは満足です。―― 「忘れてやるもんか」の<女の子を大切にできない男なんて 全員漏れなく死ねばいいのに>というワンフレーズはとくに鋭く、100%女の子の味方をしてくれる心強さがあります。

普段あんまり言えないことを歌うとスッキリしますね。これを聴くことでスッキリしてくれる子もいるんじゃないかなって気持ちで書きました。ラブソングを書くときはいつも、恋する女の子に対して頑張って生きていってほしいな、とどこか漠然と応援する気持ちを持っているところがあります。あとこの曲は、聴いたときの男の子の反応で本性がわかるというか。大体「そうだよね」と言ってくれる人と、「怖い」と言う人がいるんです。「怖い」と言う人は何かしらやましいことがあるのかなって…(笑)。

Uta-Net

彼女たち(特に宮崎)に明確なフェミニズムの視点があるのかは定かじゃないし、おそらくそういった構造的な問題の話よりも女の子一人一人に訴えかけるように勇気づけ励まし背中を押そうという節は感じられる。ただそれが全体的にフェミニズムの向きになっていることは明らかだろう。

2020年リリースの「明日はない」は人に合わせてばかりで本心を偽り続ける自分に飽き飽きし、嘘をつくことから決別する楽曲だ。

面白くもないのに笑ったりしない/悲しくもないのに泣いたりもしない

また、2023年の「私のままで」はより直接的に自己肯定、自分を取り戻す歌として歌われている。

あなたのための私じゃない/私のための私を素敵だと言って

自分を愛する、というテーマはありふれているし決して今に始まった問題でもない。ただ今この時代で問題視されているのは、それが社会の仕組みとして組み込まれていて逃げられないジレンマにある状況だ。女性は受け身、女性は誰かのために生きる、という前提が男性から提示されるとそういうものだと受け入れる女性がいる。それがその人の幸せなら無理にひきはがすこともはばかられはするが、そもそもの選択肢として自分のために自分を生きることを奪われているのなら問題は別だ。だからこそ気づきのためにSHISHAMOは歌う。もっと根源的な部分から、はじめの一歩ではなく、ゼロの段階から疑ってみる。その恋愛観から脱出してみる。そこから見える景色は男女平等のようで実は勾配のある坂道だったことに気づく。

チャットモンチーやThe Wisely Brothersが男社会であるロックバンドシーンでの葛藤を赤裸々に語っていたことを思い出す。

 

男らしさや女らしさに縛られなくていいという選択肢

 

表向きには耳障りのいいことをいうバンド”マン”は多い。「ここでは男女平等だ」「みんな愛しているよ」と。しかしその実はミソジニーをこじらせていたり誤った(あるいは浅い)認識でジェンダー観をとらえていたりすることは多々ある。とくにラウドロックなどマチズモが強い音楽ジャンルの界隈では顕著かもしれない。例えば「女性は大切にしよう」みたいなことを言ってて、でもそれは女性は守られるべきだという家父長制的な価値観の露出だったり「女性には頭が上がらないよ」と言いつつ、自分が下であることを自ら提示し女性を立てたうえで実質的な支配構造は変えない人などその事例はたくさんある。もっとひどい例でいえば中絶を強要していたり複数人の女性と関係を持ち深く傷つけながらそのケアを怠っていたりと女性を性道具としてか扱わない人もいるという。

そして「なんでもかんでもすぐ問題にして、生きづらい世の中だね」と何が問題かを真面目に考えもせず茶化そうとするバンド”マン”がいる。男ばかりだと暑苦しいから華として女性バンドを呼んでいる節があるフェスも知っている。男同士はライバル関係のようなポストをして、女性バンドには「○○ちゃん」と呼び、体をくっつける人もいる。マンスプレイニングには飽きもせず、美醜について言及し、「女性の割に」と低く見積もり続ける。そして最後はいつも「いやでもほんと女性は強いっすよ」が決まり文句だ。

SHISHAMOは甘ったるいことばかりは歌わない。面白くもないのに笑わないし自分のために自分を生きると宣言する。そしてパートナーシップ宣誓を”わざわざ”する。そのどれもが意図的で、明らかな主張だ。もの言う女は嫌いかもしれない。指図する女はつまらないかもしれない。わざわざ自分のセクシュアリティを提示してくる(ように思える)女は面倒くさいかもしれない。でも全部それは女性たちが自分たちの居場所を確保するため。男性が、マジョリティが居心地の良い世界を手放したくないためにかけてくる抑圧に負けないために、いまもこれからも”わざわざ”言っていく必要がある。そろそろこの国のロックシーンもいい加減に気づかなければならないことがたくさんあるだろう。

そしてなにより本当に心が晴れ晴れとするし、心からおめでとうと改めて伝えたい。