BLとレズビアン

いつくらいからか、BLなんて言葉が流行りだした。ボーイズラブ。男性同士の恋愛模様を描いた作品の事を指す。”レズ”というジャンルはかねてから存在して、アダルトビデオなんかではそのジャンルはニッチな需要によって支えられている。女性同士のキスは汚いおっさんが出てこないから良い、という観点からその需要は生まれているらしい。

いずれにせよ、BLもレズ(正確にはこの二つは対となるものではないが、一般的に通用している意味で使っている)も、性的興奮を覚えているものであることは自明だ。性癖、と呼ぶべきだろうか。その理由の一つに、それぞれが同性を見なくてよいという利点がある。または、禁断の恋がドキドキ感を加速させている。

それ自体をどうこう言うつもりはない。それは自由であるし、どんな楽しみ方も個人の倫理観に委ねられている。ただ、それがあまりにメジャーなカルチャーに侵食している気がして、それはちょっとどうかなと感じる部分があるのも事実だ。


とりあえず女にキスさせとけ

レズビアン(ここでは女性同士の恋愛を扱うコンテンツの事)に関してまず言及すると、日本のMVには女性同士のキスが出てくる。理由はシンプルで、美しくて絵になるからだ。そのシーンを撮るだけで、我々は思わず手を止めて観たくなる。簡単に閲覧数を増やすことができるそれと同時に撮影監督の芸術センスも担保されたような気になれるのだ。女性同士のキスを撮影するだけで絵になるので、まるで自分が一流のセンス抜群なクリエイターになったような錯覚を起こす。女子大生が一眼レフを持ち歩きだして、ぼかしを入れただけでセンスの良い女気どりしているアレと現象は全く同じだ。

要するにダサイ。女をキスさせておけばいいという発想がクリエイティブじゃないしダサい。ならば男同士のキスも綺麗に撮ってみろよ、と言いたくなる。でも彼らは撮らない。なぜなら閲覧数が増えないしクリエイターの気分が味わえないだろうからだ。可愛いモデルの女を海辺で走らせたり深夜の渋谷を徘徊させてるだけのほうがよっぽどクリエイティブな気持ちになれる。


とりあえず男にキスさせとけ

つぎはBL(男同士の恋愛を扱ったコンテンツの事)について。自分のイメージでは10年ほど前はソフマップとかアニメイトとかそういう”オタク的”なコンテンツを扱ったところで局所的にブームになっていたんだけど、ここ数年はもはや腐女子なんて枕詞も必要とせず、平気な顔して地上波のドラマや映画にがんがんBL要素が盛り込まれるようになってきた。それだけ人気である事は疑いようもない事実なのだが、それがあまりに平然と混入されているので驚く。(ゲイではなくBLがお茶の間に浸透しつつあるのが驚くという意味である)

「おっさんずラブ」なんかはその最たる例で、田中圭と林遣都のキスシーンは多くの話題になった。事実「おっさんずラブ ザ・ムービー」ではラストの二人の熱いキスシーンの際には劇場が悲鳴で揺れた。あんなうるさい映画は人生で初めてだった。

https://youtu.be/ApgcKU6xBBc

「翔んで埼玉」ではGACKTと伊勢谷友介のキスシーンがある事で話題にもなり、初の地上波放送では二人のキスがトレンド入りも果たしている。美しい男性同士がキスをするシーンが、男性のレズに興奮するのと同様に、女性たちの性癖を刺激していることは明らかだ。しかし「おっさんずラブ」はそれがテーマであるので構わないが、「翔んで埼玉」に関してはそのような描写は一切必要がない。GACKT曰く、伊勢谷友介は断ったが無理やりやったとのことだが、それがファンを喜ばせる者であり作品の出来不出来にかかわるものではないことはここにきちんと明示しておく必要がある。

そもそもゲイとBLは違う。BLが好きな女性たちが増えているのを見て「LGBTQ+も浸透したな」なんて頓珍漢なことを言う人はいないはずだ。なぜ女性がBLを見るか、それは一つに「自分が介入しなくてよい」という側面があるのではないか、と考えている(エビデンスはない)。美女と美男の恋愛は「どうせ美人しかこんなイケメンと付き合えないんだ」と自分と女性を重ねてしまい、そのギャップに妬みが生じたり落ち込んだりして素直に楽しめない。一方でBLだと嫉妬の対象がない。ただただ単純に美男子のエロいシーンが拝められるのだ。自分という存在がちらつかないことのすばらしさに気付いた女性たちがBLにハマる。
「汚いおっさんが映らないからいい」とレズ作品を好んでみる男性と基本構造は同じなのではないだろうか。

事実、BL好きな人がゲイを差別しないとは限らない。「男同士いちゃつくなよ現実で、綺麗じゃないとやだ」みたいな感想もちらほら聞いたことがある。要するに自分たちの中でコンテンツ消費をして、それ以外は排除しようとする姿勢がある、ともいえる。

数年前の「ムーンライト」もそうだし、「君の名前で僕を呼んで」、「キャロル」、「グリーンブック」、「ボヘミアンラプソディー」だってある種はそうだろう(これに関してはストレートによる”ゲイ”が元に戻る的なすごく歪な視点を含んでいることは多く指摘されている)。

シリアスな面も、ハードな面も丁寧に描く作品が増え、次々とミュージシャンや俳優が自身のセクシュアリティを発表し、それを支援する発言や行動、活動を行う人もいる中で、いまだに日本はエロくないと認めず、笑えないとそれらを認めない社会になっていないだろうか。ここまできて、改めて「多様性を尊重する社会になったな」と誉める人がいないことを確認する。

その一方で、そこにきちんを目を付けた作品もあって、多様性も含めて芸術に昇華させた星野源の「Ain’t Nobody Know」なんかはとても良質な作品だと思う。簡単に”多様性”なんて言葉を使いがちな我々だが、よくよく観察してみるとそれらは単なる自己都合による一方的な消費と選別であり、全くマイノリティの意見を聞き入れていないものだったりする。それは私も含め、そしてゲイに限らずあらゆるマイノリティの人たちの事を考える良いきっかけなのではないかと考える(星野源の作品だけにそこまでの責務を押し付けたい意味はない)。

映像作品の自由度が、どこまで制作側に委ねられているのかは分からないが、100パーセント自由というわけにもいかないのが、メジャーな作品の現実だろう。商品のタイアップがあればおのずその方向性は決まるだろうし、事務所やミュージシャン側の要望、出演者の固定、予算や時間帯、予定日数など様々な制限があって作品は作られる。

もちろん一概に否定はしないし、それが美しさを伴う事も理解する。事実再生回数が上がるんだよ、と言われれば別に返す言葉もない。ただ、色んな国でLGBTQ+の運動や理解やそれに準ずる新しい作品が生まれる中で、日本は少しそれとは違う形で進んできてるな、と感じるのも事実だ。
笑いに逃げることなく、真っ向からそのテーマに真摯に取り組む作品がもう少し増えてもいいんじゃないだろうか、とも思ったりするのだ。