ちっちゃくてすぐおなか一杯になるのは恥

フジテレビの「人志松本の酒のツマミになる話」という番組をたまたま見ていると、ある男性に関するキーワードが話題になっていた。それは一番傷つく言葉は「ちっちゃい」だ、という話だ。それを話していたのは松本人志だった。彼は理由もなく、とりあえず小さいことを恥ずかしがった。男は大きくなければならない、と信じてやまない彼の価値観に「ちっちゃい」はプライドを傷つけるのだ。

 その上でさらに松本が「『ちっちゃいね』って言われたらきついよね。ちっちゃいよね、って何においても。いろいろ、(人間としての)器も含め。ちっちゃいねでいいことある?」と苦笑。松尾が「荷物とかじゃないですか?男でカバンパンパンよりきゅっとしてる方が…よくまとめてきたねっていうか。なんも持って来ずに」と答えて笑いを誘うと、大悟も「男の旅行かばん大きいねって言われたらかっこ悪いもんね」と賛同。松本は「(荷物小さいと言われると)なんか舐められてるような気もするけど…確かにこいつどんだけコスメ的なもの持ってきてんねやって。だけど(ちっちゃくていいことって)ほんまにそれだけちゃうか?鼻の穴も水牛くらい大きい方がかっこいい!」と言い切って笑いを誘っていた。

松本人志 「言われて傷つく言葉No.1」明かす 「きつい。何においても…いいことある?」

まったくもって理解できない思考だし、くだらなくてしょうもないプライドだなと鼻で笑ってしまった。ちなみに千鳥の大悟は「もうお腹いっぱい?」だった。大悟も大悟だなあとあきれてしまう。飯をたくさん食うことが男のステータスというのは一体どういうロジックなのだろう。サステナブルじゃない。伊藤沙莉は「図々しい」を挙げていたが、男性が言われるより女性が言われることに意味が重くなりそうな「図々しい」は、伊藤が本当に図々しいのか女性のくせに図々しいのか、発言者の資質が問われるだろう。

UVERworldの自己責任論

あの日から突然/何もかもが変わってしまった/でも永遠に抱える価値ある悲しみだと/そう信じて…今日も行こう

EN

そういって始まる「EN」という曲で、UVERworldの11枚目のスタジオアルバム「30」は幕を開ける。コロナを通してライブも中断されてしまい立ち止まることを余儀なくされた彼らの、高らかな宣言である。

UVERworldの魅力は何といっても熱いメッセージだ。常に全力で、一人一人に語りかける。だから多くの人が涙し、共振し、彼らに惹かれていく。辛いとき、くじけたとき、彼らは一緒に立ち上がろうと手を差し伸べてくれる。

ただ、私には、あくまで私にとってではあるが、私に差し伸べられた手ではないのかなと疑ってしまう。それと同時に、これは誰に差し伸べられている手なのだろうと考える。そう思い立ったのはこの曲の以下のフレーズからだ。

今日もどこかで飢えて死んでいく子供たちを平気でシカトしてる神様が/俺たちの夢に興味持つ訳ねぇだろ!/願う以上に自分で変えろ!

EN

コロナに対する最大の対抗宣言であったのに対し、ここでは飢えや貧困をテーマに神様を糾弾している。冒頭からは大きく軸はズレているが、彼らなりの真っすぐなメッセージである。それより気になるのは「願う以上に自分で変えろ」という歌詞。もちろん間違っているとかおかしいとかも思わないし、むしろそれは一理として正しいと思う。が、あくまで一理である。

そしてUVERworldは常にこのスタンスを貫いてきた。「他人に勝つことなんてさほど難しくない。自分に勝ち続けることを思えば(REVERS!)」と歌うように、自分で勝ちに行くことにただひたすらにこだわっている。そこに他人まかせな祈りや、誰かのサポートへの期待などは含まれない。そしてその矛先は度々男性に向けられてきた。

男らしさの押し売り

「全員、俺の仲間だからな。中途半端に怪我させたらぶっコロすからな。男なら、自分の身は自分で守れ!」

UVERworld@神戸ワールド記念ホール

熱く”男らしさ”を地で行くタイプのバンドであるがゆえに、そのステレオタイプ的な男性観はバンドのなによりのアイデンティティに直結している。

彼らは何度も「男祭り」を開催してきた。女性ファンが多く、男性ファンとの付き合いをもっと深めようと思い企画されたライブは、年々参加人数を増やし、東京ドームでの開催にまで拡大させることに成功した。「男同士かっこつけずぶつかり合う場」として機能する「男祭り」は、軟弱性は必要とされていない。そしてうがった視点も誰も持たない。どこまでもまっすぐに、純粋に、ボーカルのTAKUYA∞の言葉に従う。それが「男祭り」の本髄である。

だけど女の子たちも、例えば女子会とかの場だと全然違う会話をしてるはずじゃないですか。それと一緒だと思いますよ。男に見せたくない部分、見せたらまずい部分というのがあるんだろうなと思う。女の子同士だからこそできる会話とか、情報交換とかってあるはずで。コスメ情報なり(笑)、恋愛の話なり。それこそ、男についての話とかね。それと同じように、男だけで話をするというか、いわば男同士で男を磨くための修行みたいなものなんです。というか、ほとんど苦行ですから。ライヴ中はマジで苦しいし、履いてる靴はなくなるし(笑)、服は破れるし、喉も無茶苦茶な状態になるし。ある意味、喧嘩みたいなところもありますね。

Skream!

男を磨くには喧嘩だ、というロジックは現代的ではないが、たしかに世の中に必要とされ続けるメンタリティである。もちろんそういう男性がいてなんら問題ないことも一応付け加えておく。

ほかにも彼らの男性観に関する発言を手に入れたので、少し羅列してみる。

「結成した当時男祭りをしたいと言った俺らに笑ったやつだっていた。でもいま見てみろよ!男なら、鼻で笑われるようなでっかい夢を持って、俺たちのように叶えてみせろ!ここで歌えることはすごく気持ちいい!みんなでひとつになろうぜ!」

【ライブレポート】UVERworld、横アリでの<男祭り>で12000人が合唱

そんな過去を振り返りながらTAKUYA∞(vo)は「当時の自分がどこに居るのか、何者かも分からなかった気持ちの中でステージに上がってた景色とは、全く違うものが見える。皆は俺たちの誇りです、ありがとう」と感謝を伝えつつ、「意地と努力が俺たちの想像を遥かに超えたこの景色を作ってるんだ! すごいだろ? お前らも男なら夢とか希望を、夢とか希望のままにするんじゃねえぞ!」と扇状、1600人の観客もそれに怒号のような大歓声で返し、遠慮のない男同士の生き様をぶつけあうライブを繰り広げた。

UVERworld 男祭りで咆哮、「夢とか希望のままにするんじゃねえぞ!」

男なら、というのはマチズモの典型例だ。それがいけないわけではないが、彼らのマチズモは時に諦めることを困難にさせる。男なら夢を諦めるな、は、男が夢を諦めるなんて、と地続きである。                                                                                                                                                                                   

また、この「男祭り」には女性が招待される。

 さて、男祭りと称されたこのライブはその名の通り、男限定ライブだ。勿論、女はどんな事情であれスタンディングフロアでの参戦は出来ない。しかし、事前抽選によって女性無料招待席を手にした女ファンのみが「歴史の証人」として男祭りを観ることが出来る。

革命への第一歩。UVERworld KING’S PARADE 2017 ーー女から見た男祭りの“姿”

男の雄姿を女性に見届けてもらう、という奇妙な思想が彼らのライブでは実現してしまう。常に女は男のバカも涙も挫折も復活も母性によって受け止め看過され見届けてもらえると信じてやまない。それが女性の役割である、とでもいいたげなシステムに懐疑的な目をやる隙間もない。

成功者の論理

話は戻るが、彼らは「男なら自分で夢をつかめ」「生き方を人にゆだねるな」と強く訴える。

今日もどこかで飢えて死んでいく子供たちを平気でシカトしてる神様が/俺たちの夢に興味持つ訳ねぇだろ!/願う以上に自分で変えろ!

EN

と歌う彼らにとって差別や不条理は他国の貧困や飢えかもしれない。ただ、コロナ禍において、果たしてその自分で勝つという姿勢は機能したのだろうか。

「物議かもす格差/弱者のreal/あの対岸の火事/明日は我が身Real(I LOVE THE WORLD)」と歌う当事者性への危機感はあっても「プラスマイナスも捉え次第/進化をしトライせよ(同)」「満たされた世界でないもんばっかり探してんだろ?/どんな世界でも僕らは/ないもん作ってアガっていたい(同)」と続ける。やはりここでも、セルフメイド、苦境は自分で打開する、という姿勢がでている。だれかに頼ることはしない。それは男じゃないからだ。

「普段から不満を言う奴は不満を言う。かっこいい奴らは自分たちにできる範囲の中でできることを見つけて、最高の世界にするんだ!」

なぜUVERworldのライブがこんなにも支持されているのか、その理由を知った横浜アリーナ公演をレポート

男だったらよ、いこうよ。幻想を打ち立てようぜ。
鼻で笑われるようなことも言ってみせろよお前らよ!
男のくせに女々しく、現実ばっかり訴えて「あれはダメ」「これは出来ねぇ」とか言ってんじゃねえぞ!

文字起こししてみた:UVERworldボーカルTAKUYA∞の情熱的なMC①

なぜ彼らはこうまでして「諦め」を否定するのか。2016年に「逃げるは恥だが役に立つ」が一大ムーブメントになっても、彼らは「逃げ」を許さない。

それは彼らが成功者であるからだ、というのが私の見立てだ。彼らはそれで成功できた、その成功者の暴論である。強者の理論はいつもなぜか”正解”として世間に受け止められる。いわゆる”成功”した人なんて一部なのに。彼らはあきらめなかったから成功した。だからお前にもできるだろう?というのは彼らの通底した理念だ。武田砂鉄氏の著書「マチズモを削り取れ」内で、こんな一節がある。

概要としては武田氏がふとグラウンドに目をやると、あきらかに無茶なノックを受ける野球部員がいた。それに対しコーチは「あきらめるんじゃねー!」「男だろ!」「やる気ないなら帰れ!」と罵声を浴びせていた。そのことを元プロ野球選手の里崎智也氏に話すと、「ノックをする人の目を見て、打球の方向を先読みすれば、捕れるようになる」と返されてしまう。

いや、そういう話ではないのだけれど…と思いつつも、番組の進行上、そのまま流す。(中略)スポーツの世界は常に、成功者の論理を基準に動いていく。自分が耐え抜いた厳しい練習をもとに、目の前で起きている光景を評価する。いや、でも、自分はできたから。いや、でも、自分は弱音を吐かなかったから。いや、でも、悩んだ自分を打破することができたから。こうやって強者の論理がまかり通ってきた。確かに厳しかったけれど、やり遂げることができたあの経験は今に生かされている、という論理が強化され続ける。

マチズモを削り取れ(P218~219)

UVERworldは成功した。音楽業界の成功の中でも特に大きな成功を収めたバンドである。それはひとえに彼らが諦めなかったからだ。笑われても常に前を向き戦い勝ち上がってきたからだ。それは一つのストーリーであり彼らのなによりの勲章であることは全く否定しないが、その前提にもとづいて、冒頭のように手を指し伸ばされても少し戸惑うのも事実だ。

そして、コロナは何を変えたか。疫病という誰にも防げない、そして個人では打ち勝つことの不可能な厳しい世の中にしてしまったのがコロナだ。飲食店の経営者は閉店を余儀なくされ、旅行会社は店舗を縮小せざるを得なくなった。フライトアテンダントはあらゆる業種に出向され、エッセンシャルワーカーは見返りもないまま危険な最前線に立たされ続けた。

その状況を歌った歌で「幸せかどうか/よかったかどうか/世界は広いかは捉え方次第(EN)」「誰かを指さし非難する/大概その指はそいつより汚れている(同)」というリリックは捉え方が少し変わってくる。

もちろんこの一節は一般論であり、「お前なんかにできるわけねえだろ」とかそういった文言を想定した”指さし非難”なのだろうが、どうあがこうがどうしようもない人は取りこぼされているのではないだろうか、と考えてしまうのは邪推だろうか。

「もう捨て身で飛び降りるつもりで 行ったはずが登りつめてった(奏全域)」が彼らのアンサーであるなら、上り詰めた人間の言葉は強い。それが欲しいという人もいる。自分とはもう全く別のベクトルであるという認識でまるで異次元の何かを観るように音楽を聴くファン、それを無邪気に自分事に置き換えて明日からの活力にできるファン、そして同じく成功者である強者の三者である。

UVERworldには芸能人のファンが多い、というのはよく言われることだが、それが事実だとしたら、その理由は明白だ。ファンだと公言する山田孝之も、綾野剛も、全て勝ってきた人だ。何かを強くこだわってやりつづけ、結果を残してきたごくごく限られた人だ。残念ながら大抵の人間は諦めて生きている。妥協して、でもその中で最良の選択をして生きている。そこに強者の理論は存在しない。

俳優やってようが、役者やってようが、ミュージシャンやってようが、ラーメン屋やってようが、学生やってようが何も関係ねぇ。ここにはなんのラインもねぇんだよ。オレたち、生き方で勝負しようぜナァオォイ!!

【UVERworld 男祭り 勝手に文字起こし】TAKUYA∞ MCを文字起こししてみた。

TAKUYA∞が発したこの発言はすべて一般的に「好きを仕事にしている」人だ。夢があり、ロマンがあり、目標がある。ある、というか明確だ。夢が明確な人を念頭に置いている。そこには営業職の明確なビジョンがないサラリーマンや看護師や介護士、エンジニアや工場勤務、店員といった夢や目標が役者やミュージシャンといった特殊な職業に比べて具体的に持ちづらい職業は列挙されない。

何を語っていないかで他人の発言を糾弾するのは揚げ足を取るようであまり褒められたものではないが、とっさに出たこれらの職業の羅列で、彼が誰を念頭に置いて発言しているかがにじみ出ているような気もする。

まとめ

男らしさの解体はUVERworldには無縁である。もちろん男らしさのすばらしさも理解できるし、だれもがその解体の余波を食らう理由はない。ただ、自分はこの波に乗れないな、この思想には手を組めないな、そして自分には歌われていないな、と彼らの新作「30」を聴いて感じた。

松本人志や千鳥・大吾の「ちっちゃいが一番恥ずかしい」という発言や、UVERworldのいう男らしさはまだまだ世間に通底している価値観であり、子供のころからそこに苦しみ悩んできた自分にはなんだか遠い世界のように感じるアルバムだった。