踊りの夜明け

2014年ごろ、ちょうど私が「JPOP全部聴く!」と志してアメブロを開設したころ、フレデリックというバンドが日の目を浴びる機会が来た。「オドループ」と名付けられた楽曲は、まだそこまで話題になっておらず、ただ世間はKANA-BOONにキュウソネコカミ、ゲスの極み乙女。など踊るロックがシーンの覇権をいまにも握ろうとしていた。そこにとどめと決定づけるかのように登場したのがフレデリックのこの「オドループ」だった。

聴いた瞬間に「これは….絶対はやる」と確信めいた予感があり、それは2015年を迎えないうちに実現するようになる。

時を同じくして、04 Limited Sazabysが今までの路線である英語でのメロコア路線を変更し、日本語で歌った「swim」がこちらもじわじわと話題を集めていたころだった。

私もこの二曲をとても愛していたし、TSUTAYAでレンタルもしてipod classicで繰り返し聞いていた。両者は結局邦ロックシーンにおいて非常に重要な役目を果たす。フォーリミはこの後しばらく続くメロコアブームの先陣を切って走り、現在もつづく自身のフェス、「YON FES」を開催、若手バンドのフックアップや地元愛を還元するなど、いまでもフェスには引っ張りだこの大人気バンドになった。

踊りに”踊らされ”る

一方フレデリックはあちらこちらで語られこすられてきた「四つ打ちロック」の功罪の矢面に立たされるほどに大きな印象と存在感を残した。

と同時に、彼らは明らかに彼らのアイデンティティを「オドループ」に見いだされ、特徴的なリフ、サビのリフレイン、「~してんだ」「~です」といった語尾をつけるなど、本人たちのコントロールを超えた需要に”踊らされて”いく。

明らかに「オドループ」の呪縛から解き放してもらえず、同じフォーマットでうわべだけをいじってるところがある意味でガラパゴス化を促進させたし、邦ロックファン以外からのスカンをくらってしまった部分も否めないが、それでもフレデリックは前を向いていた。結果、こういったパロディまで作られてしまうくらいには「フレデリックといえばこれだよね」が定着した。それがいかに困難で、どれだけすごいことはかは理解をしつつも、ある意味で不幸な一面でもあるなと思ったりもする。

──では、メジャー・デビュー・ミニ・アルバム『oddloop』について話を聞かせてください。元々、アルバム全体のテーマはあったんですか?

康司 テーマを決めることがバンドとして初めてだったんです。テーマはまず、“踊る”って言葉がメインで、リズムとユーモア、その3つがテーマになってました。踊ると言っても、今の若い世代だといろんな解釈があって、早い4つ打ちのBPMで踊るのが一般的だと思うんです。「オドループ」はその目線にいる曲だと思うけど、オレらの提示したいものはそれだけじゃないんですよ。「もう帰る汽船」はダブ、「人魚のはなし」はファンクとか、昔の時代のダンスってこうだったよって。年上の人は僕らと同じ解釈だと思うけど、今の音楽シーンの中に、まだ見てない面白いものがあるんだよって伝えたい想いがあったんです。

M-ON MUSIC

ターニングポイント

ただ、明確にかれらが自分たちで舵を切り始めたタイミングがある。それが「TOGENKYO」だ。

2017年にリリースされたアルバムのタイトルトラックにもなっているこの曲は、よりファンクのモチーフやブラックミュージックのエッセンスが感じられる。それは同アルバム収録の「たりないeye」もそうだ。

ただすぐにこれが新しいフレデリックとして受け止められたかというと微妙で、そのひとつの私の体感として、当時「たりないeye」が公開されたとき、「この曲を1.5倍速で聞くとめちゃいい」といった内容のコメントがいくつか寄せられ、おおむね同意的な感想が集まったのを見たことがある。「たりないeye、速くしたらそれはこの曲の良さでないんじゃ?」と思うのと、いかに2017年の邦ロックリスナーが高速四つ打ちに毒されているかがわかる一コマだった。

──健司さんにとって、踊るという言葉はどういった意味を持ちますか?

健司 踊る、ということを広く捉えているバンドだと思うんです、フレデリックは。それは康司が言う「心が踊る」というのもそうだし、あと例えば、僕らには「TOGENKYO」という曲があるんですけど、桃源郷という言葉も、自分たちが表現したいものを広く捉えることができる言葉で。そのうえで、フレデリックにとっての踊るとは何か? 遊ぶとは何か? 桃源郷とは何か? そういうことを突き詰めていったときに、行きつくものは絶対に前向きなものなんですよ。ワクワクして、高揚感があって、楽しめるものが、最終的に行きつく先にはある。そこに僕らが音楽で体現したいものがあるんだろうなと思います。

音楽ナタリー

YONA YONA DANCEでセルフパロディ

そんなフレデリックが昨年、思わぬ形でバイラルヒットを果たす。それが和田アキ子に楽曲提供した「YONA YONA DANCE」だ。和田がもつ圧倒的なファンクとブルースのリズム感と、フレデリックの方向性はマッチし、TikTok等から大きく再生回数を伸ばし、一大トレンドにまで至った。個人的には紅白歌合戦までいってもよかったと思えるほどだったが、野球場でも、スーパーでも、彼らの楽曲は軽快に流された。

先日フレデリックが同曲をセルフカバーしたものを解禁したが、もはやしっくりくるというレベルではなく、和田アキ子バージョンが一瞬にしてカバーに聞こえてしまうくらいにかれらのモノだった。そう、「YONA YONA DANCE」はあまりにフレデリック過ぎるのだ。まるで2014年の「オドループ」をまったくそのまま2021年に持ってきたかのような、ほぼ再生産というほかないような仕上がり。でも、私はこの曲にネガティブな印象はない。それは、明らかに高品質な再生産であるからだ。

先に挙げた「オワラセナイト」やこの楽曲も収録されている2015年リリースのアルバム「OWARASE NIGHT」にある「愛の迷惑」などは、あまりに同じすぎる。マリトッツォがおいしいと言ってもらったからといって、マリトッツォまがいのものばかり作っても飽きるだけだ。そこに発展性も深みもない。わかるのは「あ、ようやくつかんだ売れる兆し、これが商品になる、もっといろんなバリエーションを作って売らなきゃ」という至極まっとうなビジネスマインドだけだ。至極まっとうなので否定しない。否定しないが、聞く理由も見当たらなかった。

でも、「TOGENKYO」を経て、横ノリ、ファンクなどの音楽性もフレデリックとして表現できる術を身につけた2021年のフレデリックの「YONA YONA DANCE」はただの再生産ではなかった。あくまで俯瞰的に、意図的に模範的フレデリックの楽曲を制作した。セルフパロディに近いそれを感じる。それは自身の楽曲ではなく、”フレデリック提供の楽曲で和田アキ子が歌う”からだ。そこに余計なひねくれはいらない。なぜなら両者のコラボに期待されるのは模範的フレデリックの世界観ミーツ和田アキ子だからだ。

彼らは自分たちが当時求められた楽曲を完全にグレードアップして作り直した。あの必死に求められるものに限りなく近いものを作ろうという切迫感がなく、余裕が感じられる。「俺たちもちろんこんなこともできます」という宣言にも聞こえる。キーを和田アキ子に合わせ(さすがの和田アキ子でももう音域の狭さには年齢を感じさせる)、フレデリック分子をDNAレベルに散り組み込ませている。

まとめ

あらためてオドループを聞くとこの完成度と中毒性はすさまじく、まあそりゃこの発明レベルの音楽、時代を動かしたエネルギーを持つ、日本中の若者を躍らせた(自分を含む)フォーマット、一曲で手放せなんて無茶な話で、死ぬまでこすり続けたくなるのも無理はない。

ちなみにライブ映像もあるが、こういう大御所と今のバンドの邂逅はもうぞくぞくするくらいに大好きなので、もっともっとたくさんこういった企画が起きてほしい。エルトンジョンがCharlie Puthとコラボする世界があるなら日本でももっとできることはあるはずだ。

しかしあまりにじ時代にマッチしない楽曲になってしまったのと同時に、こんなに切実な歌になってしまうとも思いもしなかった。踊ってない夜、気に入らないですよねえ。