アロマンティック(他者に恋愛感情を持たない人)である主人公、佳純は、母親、妹、友人、会社、あらゆるところで正しく自分の気持ちを理解されないまま過ごす。そこで、ゲイの同級生、元AV女優の同級生らと出会い、自分の気持ちに整理しながら前に進もうとする。

他人に恋愛感情を抱かない女性が周囲と向き合いながら自分自身を見つめる姿を描いたドラマ。30歳の蘇畑佳純は物心ついた頃から恋愛がよくわからず、いつまで経っても恋愛感情が湧かない自分に不安を覚えながらもマイペースに生きてきた。大学では音楽を志すも挫折し、現在は地元のコールセンターで苦情対応に追われる日々を送っている。妹が結婚・妊娠したこともあって母からは頻繁にプレッシャーをかけられており、ついには無断でお見合いまでセッティングされてしまう。そこで彼女が出会ったのは、結婚よりも友だち付き合いを望む男性だった。「ドライブ・マイ・カー」の三浦透子が主演を務め、中学時代の同級生を前田敦子、同僚を北村匠海、妹を伊藤万理華が演じる。「his」のアサダアツシが企画・脚本を手がけ、劇団「玉田企画」主宰の玉田真也が監督を務めた。

映画.comより

決して暗い人間ではなく、素直に会話も楽しめるし、ふつうに生きるには何ら問題もないのに、それを阻もうとする人たちがいる。悪意はないのだが、「このままでいい」と願っているのに母親が勝手にお見合いを設定し、妹からは「レズビアンだろ」「強がるな」とかたくなに自分の気持ちを認めてくれない(妹は妹で結構しんどい状況であることがわかるので多少同情の余地はあるのだが)。

三浦透子はいつもながらに素晴らしい演技で、自分の気持ちをうまく表現できず、うっと言葉に詰まってしまうところなど、繊細な感情を演じている。一方ヘテロセクシュアルで元AV女優というある意味で最も佳純とは遠い存在のはずの前田敦子演じる同級生がなぜか佳純にとってのよりどころとなっていく。

鬱である父親も終始ずっと佳純を応援していて、余計なプレッシャーを与えたりしないし、自身が鬱で迷惑をかけていることを佳純に(家族に)申し訳なく思っている。自身が高校までやっていたというチェロを佳純が幼少期にやりたいと言い出したことがどれだけうれしかったのか、それは大事に弦を張り替えて手入れするシーンだけでよくわかるのだ。あのシーンが父親の愛を物語っている。

自分はシスジェンダーでヘテロセクシュアルだ。もっとも多数派を占めるセクシュアリティである。だけれど、5年くらい前からジェンダーマイノリティやセクシュアルマイノリティの人たちに強く共感を覚え、いろいろな本を読んだり映画を観たり音楽を聴いたりと自分なりに理解しようと試みた。いまではたまに自分のことを「ちょっと過激すぎるかな」と思うくらいにあらゆるメディアコンテンツにマイノリティへの差別的なまなざしがあるとかないとかを気にするようになってしまった。もちろんいろいろとバランスは大切だが、実態としてまだまだ理解がない、ステレオタイプ的なものは多い(最近でいうと恋人はアンバーの日本版フライヤーはひどく失望した)。

この映画を見て、自分がなぜ強く共鳴してしまうのかが理解できた気がするのだ。ヘテロセクシュアルでシスジェンダーの自分が共鳴だなんて失礼な話だが、当然彼らの感情をそのものを把握することはできない。推し量る以外手立てがない。むしろ推し量ることが重要だと思っている。

三浦透子は自分の感情を素直に吐露するだけで怪訝な顔をされるのだ。「変な価値観を植え付けるな」と言われてしまうのだ。全く種類も深さも別だが、自分の人生もずっとそうだったかもしれない、と思った。「屁理屈を言うな」「そういうものだから黙ってろ」「はいはいわかったわかった」ばかりを浴びせられてきて、正しいことを言っているはずなのに、いやなことをいやだと言っているだけなのに。友達は男らしさを押し付けられ、さもなくば仲間外れにされる。そういうグループにいなきゃよかったのに、と言われることもあるが、それはおっしゃる通りだが自分にはその余裕も視野もなかった。やるしかなかった。

正直な気持ちが素直に受け止められない場を見ると、自分の性分としていてもたってもいられないのだ。歯がゆく、もどかしく、息苦しい。どうして、別に論理として破綻していないのに、その価値観はあなたが生きてきた狭い狭い空間で培われてきたものなのに、それで測ろうとするその傲慢さは一体何なんだ。とこの映画に限らず、普段から思う。

私が「勉強は必要だ」と論じるとき、その真意はいつもそこにある。確かに高校数学なんて、化学式なんて必要ないかもしれない。でもそこを「いらない」とあきらめて金になることだけを学ぶ人間は、こういったいろんな人の気持ちを理解しようとする、学ぶ姿勢は絶対に生まれてこない。理由はないが、いままでであったことがない。「勉強なんて何の役にも立たない」という人は、男ならミッションをとるべきだと自慢げに話し(だいたいアホのチンピラでも取れるMTを取れて何が誇らしいのか心底理解できない)、男は女遊びをして当然だと恥じらいもなく断言し、ゲイをおかま、気持ち悪いと平気で言い、佳純のような人に「変な価値観を植え付けるな」という。そのたび、勉強は大切だな、とつくづく思う。自分になんら不利益のないことで、その人がそうしたいと願ってやめてほしいと声をあげていることを受け入れることすらできない人間はもれなくそういう人間なのだ。

そばかすでは前田敦子が声を上げる立場を演じていた。そうやって言える人ばかりでもない、と佳純はうらやましそうに見る。いつでもなんでも言える人じゃない人はいつでもなんでも言える人に託す部分がある。それが佳純にとっての前田敦子だったんだろうと思う。「お前みたいなやつばっかりだったら前の仕事辞めなくて済んだのにな」と語るゲイの同級生の言葉は色々と想像するのにあまりに容易い。

ただ、記号的なマイノリティの集合体になっていないかは気になるし、結局佳純を取り巻く周りは変わっておらず、佳純の気持ちだけが変わっただけという厳しい現実もあって、そんなさわやかな終わりでよかったのかな、シンデレラのめでたしめでたしと同じになっていないかな、その先も佳純の人生は続くのにな、なんて思ってしまった。

間違いなく名曲。聴くだけで涙があふれてしまうのは、映画の相乗効果だ。