リンゴとヒカル

私が本格的に音楽を意識的に聞き出した高校生の頃に、友人から「椎名林檎好きな人って宇多田ヒカル聴かんよね」と言われたことがあった。私は決してどちらかに肩入れしていたわけでもなかったのであまりピンとこなかったのだが、いろんな人に会うごとにその説は説得力を増してきた。
椎名林檎と宇多田ヒカル。奇しくも同じ1998年デビュー組の二人は、R&Bとロックという異なったアプローチで世間に名を轟かせた。藤圭子の娘という触れ込みはすっかり飛んで消え、天才シンガーの名をほしいままにスタジオ型ミュージシャンとして精力的に活動し、大人びた恋の歌や、時にカラフルでポップな歌を幅広く歌いこなす次世代のクイーンオブシンガーへと上り詰めた宇多田ヒカル。妖艶で歪の聞いたギターと特徴的な歌声で極めてロックに忠実に、そして年齢を重ねるごとにジャズ要素や歌謡要素を取り入れた椎名林檎。たしかに二人は2016年の作品「二時間だけのバカンス」まで共演することもなく、ファン同士の交流や両方のファンだと公言する人はあまりいなかった、私の周りでは。

ちなみに、98年デビュー組にはaikoもいる。この三者はそれぞれフィールドの違う所で王者になった。テレビに出るたび「顔変わった?」とタモリの「髪切った?」ばりに視聴者から問いかけられてしまう年齢も私生活も不明なロックミュージシャン、椎名林檎。本格派の触れ込みで世界デビューも果たし、ライブ活動よりも制作活動に重点を置き”あまりお目にかかれない”珍獣のような存在となった宇多田ヒカル。いくつになっても甘い恋心を吐露し、ショートパンツの上にスリットの入ったロングカートを着てTシャツ姿でダブルピースをかまして「男子ぃ!女子ぃ!眼鏡ぇ!コンタクトォ!」のコールアンドレスポンスを欠かさないaiko。彼女たちの存在は次の世代の大きな指標となった。

特に椎名林檎とaikoは模倣されやすかった。宇多田は自らの才能とオーラだけで全てを作り上げていくオーガニックタイプなのでそもそもの素質がないと難しいが、aikoと椎名林檎はデフォルメしやすい。歌い方も、独特な歌詞表現もファッションも椎名林檎はフォローするのが比較的安易である。aikoも等身大の張り切る女の子、を演じればそれなりに彼女に近づけるだろう。服装も白いロングスカートにTシャツで十分だ。Perfumeのあ~ちゃんのようにコールアンドレスポンスを参考にしている人も多い。
女性ソロシンガーってどうしてもこの三者のどれかに属してしまう気がする。あ、あとアンジェラアキか、つまり四者だ。それは音楽ジャンルの話ではなく活動スタイルの話で。ふとあるアーティストに目が止まった。ピアノ、独特なオーラ、歌詞。

中村ピアノの方程式

中村ピアノ
と言われて知っている人はどこまでいるのだろう。まさにこの春メジャーデビューしたばかりの新人アーティストである。YouTubeで調べても多くの楽曲は出てこないし、ググっても中村ピアノ教室を必死にGoogleさんは探してきてくれる。川崎市の音楽教室なんていかねえよ、こちとら大阪在住だよ。
インディーズ時代の「キャンディキャンディ」は艶かしさも音作りも含めて椎名林檎「歌舞伎町の女王」の世界観を持ってきたかのような楽曲である。大森靖子+黒木渚÷椎名林檎=中村ピアノ、という方程式が簡単に思いついてしまう。あぁ、これで終わりだね。。

とはいかないのは4周ほどした時だった。そんな安易なカテゴライズと方程式では漏れ出した情報があまりに多すぎる。それらを拾い集めると確かに「中村ピアノ」と読み取ることができる。なるほど、

キャンディキャンディ−(大森靖子+黒木渚÷椎名林檎)=中村ピアノ

になる。
ピアノとベースとドラムのシンプルな編成が歌声をより強調して、個性が毒々しく漏れ出している。

また、「103号室」ではトリックもあって面白い。
歌詞カードは冒頭からずっと漢字とカタカナだったのに、最後3行

ねぇ、今ようやく貴方は私のものになったのね
西陽で照らされた部屋 あかく染まってゆく
耳鳴りの向こうで 喝采が聞こえる

でひらがなに変わっている。と同時に声もヴォコーダーを外し生の歌声がバチンと響く。その緩急がより緊張感と狂気感を生んでいる。歌詞の内容だけでなくその他の表現方法を駆使してちゃんと世界観を作っているのが非凡の最たる例だろう。

カテゴライズという力技

もしかしたらaikoを聴いてきた人には響かないかもしれない。それは冒頭で述べたように四者多様でありその四者は交わることがないからだ。大森靖子とaikoの生死感がたとえ似ていようとファンはそこを留意しない。椎名林檎に憧れて難し漢字を一人教室の隅で大学ノートに書き散らす子も、きっと私のファーストキスもタバコのflavorなんだと胸躍らせる宇多田ヒカルに憧れる子も、本質は変わらないのだがそこはスルーされる。
中村ピアノに限らずこうした底辺にある憧れの結晶がどのアーティストに属していようと、本質はみなおなじであるが、世間は「ああこれは○○だね」という粗雑なカテゴライズで済まそうとする。雑多な情報社会では必要なスキルではあるが切なくなる力技でもある。私はなるだけそれを避けたいなあと思う。ちゃんと見届けたい。あふれ出るものを救いとる力をつけるためにも。