優里に「ビリミリオン」という楽曲がある。MVを鉄拳に手掛けてもらった、気合の入った作品だ。

「ビリミリオン」は優里の「無限大の可能性のある、何にでもなれる自分の人生を、自分で考えて選んで後悔しない生き方をしていこう」という思いから生まれた、頑張るすべての人の背中を押す優里のエールソングだ。

FASSION PRESSより

鉄拳のパラパラ漫画を採用するあたりにさすがのセンスが光るが(深イイ話とか好きそうな)、この歌詞、なかなかに考えさせられる。

歌詞の全てを載せることはできないので、歌ネットのページを開きながらぜひ読んでいただきたい。

冒頭、老人が登場し「残りの寿命を買わせろ。50年を50億で買う」と優里に向かって交渉してくる。この50億(1年1億)の妥当性はひとまずおいといて、悪魔とか天使とか死神とかでなく、老人がそう言ってくる。何者なんだという疑問がまずでてくるが、それは歌の世界なのでやりすごす。

普通の暮らし、日常の暮らし、代わり映えのない暮らし。それは退屈にも思えるし、つまらなくも感じるが、50億では手放したくないと考える優里。理由を考えてみたとご丁寧に注釈までいただく。

50年経つと、身体もいたくなるし友達もいなくなって、恋愛もできなくなる、というのが優里の50年を50億で手放したくない理由だ。そもそも50年を老人に渡すと、50歳一気に年を取るという解釈で間違いないはずだ。現在29歳の彼は、79歳になる。なるほど、確かに身体も痛くなる。ただ、友達がいなくなる理由がいまいちわからない。50年後の世界にいってしまうなら亡くなってしまった友人もいるだろうが、50も歳を取ろうが同級生の友人は変わらず29歳のままだ。なぜ友達がいなくなるのか。考えられるのは①突然79歳になった優里を誰も信じてくれない②79歳になった優里がショックで縁を切られる③この50年で手にするはずだった友人がいなくなる、の3つだろう。そしておそらく3番目のことが言いたいのだと思うが、29歳までにできた友人はないがしろにしているのは”失われた50年”の重要性を語るためには致し方がないことなのだろうか。そもそも一生大事にしていきたい友人って、結構29歳までに固まってくると思うのだが、優里の中ではその失われた50年こそに真の友人が含まれているのかもしれない。確かに華やかなタレント生活を謳歌している彼にとってはこれから付き合う上流階級のインフルエンサーやお金持ちとの付き合いは派手で楽しく手放しがたいかもしれない。自分が優里でも嫌だ。せっかく売れたのに、こっからチヤホヤされていっぱいかわいい子と付き合ってほしいものすべて手に入ってみんながイエスマンになってくれる生活が保障されているのに50億ぽっちで手放すわけがない。正論である。

「僕が生きているこの時間は50億以上の価値がある」と語る優里。これから先の50年を50億で買い取るだけで、今の自分の時間に50億以上の価値があるかどうかは論点ではない気がする。50年50億と、たった今この時間=50億、はさすがに飛躍しているしハードル上げ過ぎた。「生きているだけでまるもうけ」と突然明石家さんまの言葉を拝借しながら、今の自分を肯定する。そのまま「これ以上何が欲しいの」と問いかける。これは私たちに問いかけているのだろうか、あるいは自問自答しているのだろうか。「生きているだけで丸儲け」と言いつつ友人を失うことを恐れ恋愛できないことを理由に交換を拒否しているので、生きているだけ=人並みに友人はできて恋愛もそれなりにできる、人たちの論理であることも推察できる。

さんまさんは、若手の頃の経済的に恵まれていなかった時代を自虐的なネタにすることがあります。彼の名言に、「人間生まれてきたときは裸。死ぬ時にパンツ一つはいてたら勝ちやないか」というのがあります。禅には「本来無一物(ほんらいむいちもつ)」という言葉があり、相国寺(京都)の有馬頼底老師が、以前あるテレビ番組で「本来無一物」を説明する際に、このようにおっしゃっておられました。「本来自分のものだと、『おれが』とか、『これは私のものだ』という執着心、これがさまざまな形で人間を阻害しております。本来何一つ持って生まれたわけではなく、何一つ持って死ぬわけじゃない。これさえしっかり胸におさめておれば、ほんとに素晴らしい生き方ができるんじゃないか。これが禅の生き方なんですね」 この言を踏まえると、さんまさんの2つの言葉はまさに禅的な雰囲気を帯びているともいえるのではないでしょうか。命1つ、パンツ1つでも、という彼の幸せへの目線の低さが、40年近く続く人気の秘密なのかもしれません。本当に心豊かな人間は、どんなに小さなことに対しても感謝の気持ちを覚えるものです。 

【お寺の掲示板の深い言葉 9】「生きてるだけで丸儲け」より

明石家さんまの発言の真意はわかりかねるが、この「本来無一物」の精神に沿って考えると、友人とか恋愛とか、そこに執着しているものって、幸せの目線の高さって高めじゃないかな、とも感じる。「これ以上何が欲しいの」ってのは友人や恋愛が十分に満たされたうえでの語りである。

続いて老人は「じゃあ100億でどうよ」と交渉する。それでも優里は断る。そして「50年で100億って年収2億の大富豪じゃん」とわけのわからないことを考える。老人は「奥さんと子供もつけるよ」と提案する。しかしれそれでも「でも好きな人は自分で見つけたいからいらないよ」とかたくなに断る。正直この時点で有害な男性性と家父長制を振りかざして、この時代に「奥さんと子供を”つける”」とか言わせているので相当「ないわ~」が先行しているが、このまま読み進めていく。ちなみに老人は「豪邸も仕事もつける」と提案しているが、この老人もそうとう焦っているのかボケているのか、優里が79歳になることを忘れているのか、「そんなのいる人いねえだろ」というツッコミを待っているのか、とにかく提案が杜撰すぎる。79歳になって仕事と豪邸をもらって「じゃあ50年あげる!」というひといるのか。というか100億もらって仕事欲しいひといるのか。100億あったら豪邸買うのだが。子供も持つ喜びって成長を見届けることなのに79歳でいきなり(養子でもない)知らない子供もらってどうしたらいいのか。老人は本格的にヤバいかもしれない。

「無限大の可能性のある、何にでもなれる自分の人生を、自分で考えて選んで後悔しない生き方をしていこう」というテーマ自体は普遍性が高く共感も多く集めそうなものだが、そのテーマに「50年50億で買い取る老人」の設定はクリティカルに表現できているのかは簡単にうなずけない。意地悪な言い方をすると、「自分で考えて後悔のない選択」なのだとしたら50年50億で買い取ることも立派な選択だといえてしまうからだ。もっと極端に「無限大の可能性のある、なんにでもなれる自分の人生を捨てるな、大事に生きろ」くらいの方がフィットしたような気もする。

総じて言葉とシチュエーションの選択が微妙にピンボケしていてせっかくの普遍性の高い強いメッセージ性がふわふわとしている。とくにこういうテーマは書いている人間の本質的な豊かさと経験値にゆだねられる部分が大きいのでなかなか難しいものもある。

皆さんはどう感じたろうか。