以前からAdoの楽曲を聴くたびにその変幻自在さに驚嘆していた。まるで別人かのようにもわもわと楽曲の色に合わせてキャラクターを変えていく様は誰もがその才能を認めざるを得ない瞬間だっだろう。

そのAdoが出したカバーアルバム「Adoの歌ってみたアルバム」は、当然ながら本領発揮といったところで、冒頭の「ドライフラワー」から、優里が憑依したような、でも間違いなくAdoのオリジナリティでもって支配的な空気をまとっている。と思えば続く中森明菜の「飾りじゃないのよ涙は」は歌謡らしい歌い方で艶っぽく歌う。一転して、きくおの”愛して愛して愛して”と椎名林檎の”罪と罰”では狂ったようなシャウトとがなり声でこちらが怖気付くほどの気迫で迫ってくる。

このようにAdoはその類稀なる才能をいかんなく発揮している。それはまるで世界線の異なる荒牧陽子のようだ。きっとAdoは本気を出せばいろんな人のモノマネができる稀有なタレントになっていただろうし、それは”うっせぇわ”が流行っておらずモノマネに注力した世界線のAdoかもしれない。そうなると荒牧陽子がオリジナルソングで一発当てていて本人がモノマネに転向する前にヒットシンガーになっていたらAdoのような存在になっていたのかもしれない。要するに器用さのレベルは同じだと思うのだ。どちらが凄いとか偉いとかではなく。

カバーの手法は様々だが、Adoは特に曲調や原曲のアーティストの個性、背景などを加味して歌い方を変える。アーティストによっては自らの個性だけをひたすらに貫き完全にオリジナルソングへと変えてしまう強引な場合もある。これもスタイルの違いでありどちらが正解でもない。ただAdoがこのアルバムを他のカバーアルバムより突出していると思わせるのは、自由自在に変化しているのに全部間違いなくAdoだからだ。モノマネにならない、自我の押し売りにならないその一番難しい真ん中を突き通している。

元々全ての曲は知っておらず、特に後半のボカロ曲はAdoの今回のカバーで初めて知ったものばかりだが、間違いなく素晴らしい出来上がりだと感じられる。

パラレルワールドから来ました、荒牧陽子です