装飾のないステージ

そんなに数多くの海外アーティストを見てきたわけではないが、来日公演はたまに観に行くし、無理なら映像だけでも見たりしてなんとか気持ちを抑えている日々。

そんな海外のアーティストのライブ(映像)を見ていると、なんとなく日本との違いに気付く。それはステージのパフォーマンスの違いだ。

初めてそれをはっきりと痛感したのは2019年のサマソニでのYUKIのステージ。色々見て回った後に彼女のパフォーマンスを観るために一番大きなステージに移動してみたら、そこはリハの開場かと思うくらいに簡素なステージだった。女性がセンターに立ち、まわりにサポートのバンドメンバーがいる。それだけ。後ろに垂れ幕があるわけでもビジョンがあるわけでもない。ダンサーが出てくるわけでもない。その後がまるでクイズタイムショックかのような巨大な円形の回転セットにまたがって登場するZeddだったからなおさらその差は歴然だった。
こんな真夏の真昼に映えもしない光線だけ光らしてあとは骨組み丸出しのステージにYUKIひとりが懸命に歌っている。なんだこれはと呆れる以外に感想はなかった。(あくまで一つのエピソードでありYUKI自身をけなすわけでもなく、また単独ライブでの演出とフェスでは違う事も理解している)

今思えばほぼすべての邦楽アーティストにいえる。どうしてステージに装飾がないのだろう。たまに白い煙をだすくらいで、なんの仕掛けもない。そう、彼らはただ「私の歌を聴いて!そして感動して!」を押し付けてくる。そりゃYUKIは素敵だし歌声は神からの贈り物だと勝手に思っているが、だからと言ってなんの仕掛けもないステージを1時間も観ていられるほど私は貧しくない。もうすっかり演出には肥えてしまった、典型的な21世紀の過剰なパフォーマンス至上主義の弊害によって侵された人間なのだ。
もちろん”あえて”そのようなステージングにすることもあるだろう。でもそれは”あえて”だから機能する。みんながみんな、毎度毎度なんの仕掛けもなくただ演奏してただ歌うだけならそれは”あえて”ではなく”怠慢”だ。驕りだ。


歌声が最大であり唯一の芸術という縛り

よくよく考えなくても海外アーティストは仕掛けがたくさんだ。はっきり言って日本のそのへんのクソみたいなバンドよりはるかに売れてファンを多く持ち高い音楽性を発揮して世界的に認められているアーティストでも、ダンサーを従えていたり、炎を吹かしたり、ビジョンが派手で映像と演奏のコラボも充実している。むしろバンド演奏だけのバンドって、そこそこのスケールのグループにいるだろうか。

なぜか日本は「演奏に集中してほしいから」という理由なのか、単純に予算がないのか、フェス側から制限がかかっているのか、仕掛けを用いないアーティストがほとんどだ。正直飽きる。リハじゃん、って思う。相当レベルの高いアーティストじゃないとマンネリになってしまう。あんたたちより売れてて音楽がしっかりしてる人たちがあんなに工夫凝らして演出しているのにお前らごときがよくそんなレベルの演奏をむき出しにしてるねバカにしてるの?と思わなくもない人もいる。それこそ「音源でいいわ」と個人的には思ってしまう。

もちろんそれぞれのアーティストにも思いがあるだろうし、そもそも私のこの過剰なパフォーマンスを求める姿勢が正しいかどうかの議論も尽きないと思う。ただ、おそらくそれが日本人の美徳なんだと思う。何も装飾しないことが真の鑑賞である。という。ただ、マジかよ。それマジで言ってんの。と思ってしまう人がいることを理解はしてほしい。

もうファンに頼るのはやめよう

たくさんの自国のファンに囲まれて毎年同じフェスに出てツイッターで励ましてもらってて、飽きもせず同じことを繰り返していたらそりゃ新しいことをお金かけてやろうなんて思うはずがない。世界ツアーに出て世界のフェスに出る。あのアメリカでブイブイ言わせているのに極東の島国に着たらガラガラだった…なんて経験をしているアーティストは強い。もっといろんな人を楽しませるには、もっと自分の音楽を表現するには。歌詞だけでなくダンスや映像や衣装で表現する必要がある。そう考えるアーティストのステージはおもしろい。

私は日本のフェスが多すぎるだなんて思わないが、そのおかげで毎年食っていけてるような、しかも代わり映えもしない新陳代謝の悪い世間の潮流とはズレた音楽を鳴らしてもだれも文句言わない環境が蔓延っているならフェスは削った方がいいと思う。もっとファン以外に目を向けてほしい。ファンだけに音楽やらないでほしい。やってないかもしれないが、なんの仕掛けもなくMCで笑いとるだけの身内ノリはファンでもない人間にしたら苦痛でしかない。楽器を変えてみてもいい。ハンドマイクに持ち替えてもいい。服を脱いでもいい。踊ってみてもいい。一回CHAIでもみて考え直してほしい。