端的に言ってロックンロールは聞き飽きた。
具体的に言って、ロックンロールという言葉を用いてロックを称揚する人たちに飽きた。
飽きたっていっても今飽きたわけじゃなくて、ずっと飽き飽きしたけど、どれに飽きているのか思い出しはじめた。
なんだか年に一回くらい「ロック」をタイトルにした記事を書いている気もして、それはそれで「いやよいやよも好きのうち」現象に片足を突っ込んでいる様相にも見えなくもないが、そうではあるまいと必死に頭を振りながら書いている。
ひとつめが、以下のツイート。
6月14日「ROCK 今日は何の日?」1982年、忌野清志郎が生放送「夜のヒットスタジオ」に出演中、トーク時より噛み続けていたガムをTVカメラに向けて吐き出し、更にそのことで視聴者へ謝罪する司会者の後ろで舌を出し顔をしかめるなどして、テレビ局に抗議の電話500本以上が殺到した。 pic.twitter.com/qDEPVCxjL7
— ROCK,MUSIC&BAR Freak (@ROCK_BAR_Freak) June 13, 2023
まず大前提としてこの出来事の是非を語りたいわけではない。そしてこれを語るときにいろんな視点をごちゃまぜにするとややこしくなる。時代も違うし事実、当時でもすごい怒られている。そしてこれがロックかどうかの議論になるとよりややこしい。
ただ、このツイートはロックバーのアカウントがロックの一場面として紹介し、おおむね肯定的にとらえられているという点は留意したい。この行動を「当時は緩い時代だったからねえ」と懐かしむのも「今じゃ怒られちゃうね」と戒めるのも「清志郎らしいね」と本人を偲ぶのも自由だしいいと思うが「ロックだね」は少々思慮が浅すぎて「ほんとにそれでいいの?」と疑ってしまう。それを「ロックだね」で終わらせていいの?って。ロックの定義は人それぞれだからどうとらえようと自由ではあるものの、反社会的行動で当時も今も怒られるような行為を「ロックだねえ」は言葉足らずなのでは。ロックもそのカテゴリーに入れられて迷惑なんじゃない?
メディアに対する反骨心とかメッセージが含有されているとかいろいろ背景があるのは理解できるけど(そもそもこの行動の是非を問いたいわけじゃないからその背景も別に必要ないのだが)、そのノスタルジーさと解像度の低さにもやもやする。あと清志郎もう飽きた。ジョンレノンくらい飽きた。
もう一点ロックンロールと口走る人に飽き飽きなのは、文字通りおんなじ話ばかりするところだ。
2003年6月27日放送(20年前)
THEE MICHELLE GUN ELEPHANT (初登場)
ゲストのドタキャンにより急遽生演奏でもう一曲披露
「ミッドナイト・クラクション・ベイビー」#音楽駅名シーン #2003年 pic.twitter.com/3SLmmlg9kv— 音楽駅名シーンbot ※リクエストは受け付けておりません (@Ongakueki35th) June 26, 2023
いつまでこれ擦るの?
このアカウントはbotなので矛先としてはリアクション側なのだが、親の顔より見たミッシェルのMステ。そして決まって「ロックだ!」。ロックだよみたらわかるよ。
こういった印象的ないわゆる「伝説のシーン」は語り継がれていくものなのだが、語り継がれていくペースが速い。バケツリレーでもある程度距離をとってリレーするものだが、この動画はとにかくスパンが短い。延々擦られ続けている。そして決まって「ロックだ!」と色めく。
ロックが好きなら新しいロックが見たいしいろんなロックがみたいけど、どうやらクリシェの森に迷い込んでいるのかVHSを擦り切れるまで見ていた世代(これもまた使い古された表現だ)だから何度でも繰り返し見て叫びたくなるのか。
いずれにせよ、このMステ動画は擦られ過ぎてロックの代名詞になる気配すらありつつ、これはこれでかっこいい映像ではあるのだけれど、この動画から抽出されるロックは現代に当てはめるとそりゃ無理が生じるわけで、自動的にロックは滅亡したことになってしまう。忌野清志郎もミッシェルガンエレファントもロックではあるけれど、そろそろそれはアーカイブフォルダにしまって次のステージで話しませんか?なんて気もする。気もするだけだ。