木津毅氏の「ニュー・ダッド ――あたらしい時代のあたらしいおっさん 」を読むと、どれも映画が見たくなる。魅力的なキャラクター紹介、映画のポイント、それぞれが際立って端的に教えてくれる。「じゃあどんなのだろう」という好奇心が湧く。本書は今疎まれるべき存在のおっさんをめでてしまう著者の赤裸々なエッセイだが、その中でそれぞれの映画に登場する愛すべきおっさん像から今の社会であるべき姿のおっさんを模索している。その一つが、「ありがとう、トニ・エルドマン」だ。

正反対の性格の父娘が織り成す交流をユーモラスに描き、ドイツで大ヒットを記録したヒューマンドラマ。陽気で悪ふざけが大好きなドイツ人男性ヴィンフリートは、ルーマニアで暮らす娘イネスとの関係に悩んでいた。コンサルタント会社で働くイネスは、たまに会っても仕事の電話ばかりしていて、ろくに会話もできないのだ。そこでヴィンフリートは、ブカレストまでイネスに会いに行くことに。イネスはヴィンフリートの突然の訪問に戸惑いながらも何とか数日間一緒に過ごし、ヴィンフリートはドイツへ帰っていく。ところが、今度は「トニ・エルドマン」という別人のふりをしたヴィンフリートがイネスの前に現われて……。監督・脚本は「恋愛社会学のススメ」のマーレン・アーデ。第69回カンヌ国際映画祭で国際批評家連盟賞を受賞するなど、世界各地の映画祭で高く評価された。

映画.comより

 

木津氏は、説教を垂れるおっさんもまた、年長者の男であるというものに縛られて自ら演じようと苦しんでいるのかもしれないと推察する。ヴィンフリートは娘のイネスとはあまりに価値観が異なる。仕事のためなら大量解雇もいとわない人間だが、父であるヴィンフリートはどうしても首を突っ込みたくて仕方がない。それでいいのか、と案じる。事実、どうしようもないのだと打ちひしがれてしまうのだが、ヴィンフリートは「説教したいけど娘には伝わらない」という事態をトニ・エルドマンという架空の人物を演じることで解決しようと試みる。意図的か偶然の産物か、大半は裏目に出るが、最後にひとつのカタルシスを迎える。

ありがとう、というのは誰の視点か、ヴィンフリートか、イネスか。その見方によっても映画の捉え方は変容するだろう。

どう考えてもヴィンフリートはクレイジーだし、事実娘のイネスにもそういわれるし、全くもって異論はないのだけれど、この映画を見てヴィンフリートをそこまで嫌いになれないのは「愛嬌があるから許しちゃうんだよねえ」みたいな単純な話ではない。

 

それならラストのヴィンフリートのセリフと着ぐるみのシーンは納得がいかなくなるし、”仕方なく許される”ことは簡単に美化できないからだ。イネスはイネス自身の心の余裕のなさや幸せについての根本的な確立に迷っていたこと、迷惑極まりない父親の生き方に一つの活路をあきらめていなかったこともあるかもしれない。だからこそ、2時間半の親父の迷惑行為はときおり意味を持ち(大半は迷惑行為のままで)語りかけてくる。それにどう応えるのか。イネスは応える。私たちも応える必要があるように思う。