ホラーなんだけどオバケが出てくるわけでもない。ただ漠然と怖い。漠然とした怖さがずっと続く。

「パラノーマル・アクティビティ」「インシディアス」「ヴィジット」など人気ホラー作品を手がけるジェイソン・ブラムが製作し、アメリカのお笑いコンビ「キー&ピール」のジョーダン・ピールが初メガホンをとったホラー。低予算ながら全米で大ヒットを記録し、第90回アカデミー賞では作品賞、監督賞、主演男優賞、脚本賞の4部門にノミネートされ、脚本賞を受賞した。アフリカ系アメリカ人の写真家クリスは、白人の彼女ローズの実家へ招待される。過剰なまでの歓迎を受けたクリスは、ローズの実家に黒人の使用人がいることに妙な違和感を覚えていた。その翌日、亡くなったローズの祖父を讃えるパーティに出席したクリスは、参加者がなぜか白人ばかりで気が滅入っていた。そんな中、黒人の若者を発見したクリスは思わず彼にカメラを向ける。しかし、フラッシュがたかれたのと同時に若者は鼻から血を流し、態度を急変させて「出て行け!」とクリスに襲いかかってくる。

“黒人”がこの映画には深くかかわる。白人と黒人が付き合っていることを両親は許すだろうか、と気にする彼女。道中で黒人だからと言う理由で警官に身分の提示を求められる。彼女の家は裕福で、黒人の使用人が2人働いている。その二人ともなぜか奇妙で、クリスは気味悪く思う。初めこそは、男の使用人は彼女が好きだから嫉妬しているんだと思い、女の使用人はクリス自身に好意を抱いているから嫉妬しているんだと思いこむ。しかしそれは少しずつ違うことに気付く。彼女の家で開催されたパーティに集まった人たちはみんな黒人の事をほめ、羨む。やっと出会えた黒人の若者も衣装も含めどこか気持ち悪い。引用先にもあるが、その黒人に見覚えのあったクリスはこっそり写真を撮ったらフラッシュがたかれその時に急に敵意をむき出しにして「出ていけ!(ゲットアウト)」と叫ぶ。これがこの映画の転換期だ。そしてこれこそが最後に意味の変わってくるセリフとなる。後半の急展開、そして怒涛のカオスっぷりにぐっと引き込まれる完全なる名作。とんでもない作品。

この映画黒人がキーとなる。白人は皆黒人を差別しているのではなくうらやましく思っている、という逆のアプローチから黒人差別を描いている。それが奇妙で独特な恐怖を生む。メタファーも多く登場するのが特徴的。冒頭の鹿を轢いてしまうシーンから剥製の鹿まで、鹿が黒人のメタファーとして描かれている。また政治的な要素も見逃せない。そういった複雑なアメリカ社会を一つのあり得ないフィクション作品に落とし込めて風刺している。だからこれを観て単に面白がるというよりは、知的好奇心がくすぶられる。例えば彼女の祖父は、ベルリンオリンピックで黒人に負けた、といったような話をしていたがそれは実話をもとにしていて「栄光のランナー/1936ベルリン」という映画にもなっている、黒人のランナーが活躍した人の事を指している。それを観るのもまた一つ面白いかもしれない。

黒人を題材にした映画は近年注目されつつある。それは”ブラックライヴズマター”にしろトランプによる人種制限の影響でもある。これからどんどんこういったカルチャーからの警鐘は増えていくと思う。音楽でもラップブームが到来している今、白人がどうだなんて偉そうに言えなくなって、グラミーにすら影響を及ぼしている。じゃあ日本はどうすればいいのだろうか。数年前にダウンタウンの浜田がエディマーフィ―のモノマネをして(させられて)顔を黒塗りした事から一部の黒人たちから反感を買った。それでもピンとこない人は多い。正直私もその一人である。人の見た目や肌の色、生まれなど変えることのできないものを笑いものしてはいけない、というのが21世紀の価値観であるのは理解するが、私を含め日本人には「黒人を差別してきた」という事実と認識がないため、黒塗りは、ほくろを真似して書くのと同じ行為だと思ってしまう。そこがずれているから炎上してもあまりついていけない。黒塗りがダメなんじゃなくてそこに悪意があるからダメなんでしょ?と言いたいが、今の世の中にそんな可視化できないものをくみ取ってくれる余裕はない。ただいまは黒人を腫れ者のように扱う事しかできない。違うもんは違うだろ、は通用しない。決して黒人を軽視するつもりはない。今回のゲットアウトにしろ、栄光のランナーにしろ、フルートベール駅でにしろ、ブラックパンサーにしろ、それに対するリクションはちゃんと持っているしアクションを起こすエネルギーと知識は少しずつ蓄えているつもりだ。
だからもっと世の中の価値観にいい意味ですり合わせていかないと、とは思う。ゲットアウトはそれを考える良いきっかけにもなったとも思う。ひとつの作品としてもお薦めなので。