コロナ禍でもオリンピックは開催できたはずだ。

それが私の主張だった。発生から1年半が経過し、なんのノウハウの蓄積もできず、中止か開催かの二択を国民に迫り続け、人々の生活と仕事を否応なく奪い続けてきた。飲食店がつぶれても、イベンターがつぶれてもまた他の人間が似たような会社を立ち上げて存続していくだろう。それは嘘ではないかもしれないが、では会社をたたまざるを得なくなった人へのまなざしはどこにいったのだろう。そんなやつなんか知らないともし言いのけてしまう人がいたなら私はその人を激しく軽蔑し、嫌悪する。でも残念ながらそういう人が後を絶たない社会になってしまっているのは、なにより辛く悲しいことだ。

コロナ禍でもオリンピックはできた。もっと真剣に、誠実に、嘘をつかずに金と利権にしがみつかず、誰かを傷つけ殺し騙し裏切り見栄を張らずに取り組めば、もっとできたはずだった。

こんなにグズグズになったのはコロナのせいではなくまぎれもなくそれらを邪魔する無能な人間の存在のおかげだ。

開会式は後追いでみた。観る気も起きなかったが、要所要所を確認してみたら、それはそれは空虚なものだった。せっかく演じている人たちは一生懸命なのに、演目自体がちぐはぐで、欧米への追従感がぬぐえなくて、「imagine」なんかを歌っちゃうところがもう絶望的だった。

ありとあらゆる国と地域の選手たちが、自国の困難も、コロナも乗り越えて無事来日し、ナショナリズムを発露してユーモアとプライドを融合した衣装で堂々と入場し、開催国日本へのサービスもわすれない桜の刺繡などをあしらった衣装を目の当たりにし、一方で日本はずっとわけのわからない欧米文化の流用を続ける。

そのくせにアフリカ系の見た目をしていたら日本にみえないとか、大坂なおみがどうだとかそういった実にくだらない差別的で低俗な物言いがつくこの国の開会式のパフォーマンスをどう肯定的に見ればよいのかわからない。

実に無意味で不必要で無感動な演出の数々。ゲーム音楽を流せば喜ばれるだろうと案じた入場曲は結果的に功は奏したのかもしれないが、プラカードのうすら寒さと共にその価値は消え失せてしまった。

カルチャーを守ろうともしないくせに国を象徴するにはそれに頼らざるを得ない国にひどく絶望する。これがやりたくて、ありとあらゆる人の生活を踏みつぶしてきたのかと思うとめまいがする。

スポーツは大好きだし、すぐに試合で感動するし、スポーツに心動かされる人間なので、スポーツ自体を悪く言いたくないしできれば観たいし選手にはなんとか無事に終わってほしいと願っている。これ以上感染者が出ないように。せっかっくここまできて不本意な形で終わらないように。

でもこの開会式は今まで見てきたオリンピックの中で最も軽薄でプライドのカケラも感じない内容だった。演じていた人たちに何の罪もないだけに余計につらいものだった。