“宇多田のパクリ”として登場
宇多田ヒカルのパクリだと浜田雅功に「HEY!HEY!HEY!」で言われたことはもう水に流したのだろうか、倉木麻衣。
事務所がビーイングなので、どちらかというとZARDの坂井泉水リスペクトのような気もするが、当時の潮流もあり、宇多田ヒカルというわかりやすい記号でなぞらえられ物議を醸した。メディア露出は極端に少なく、ラジオや雑誌に限った媒体を主体として活動し、ライブを積極的に行った。このあたりも宇多田ヒカルとは対極である。もし倉木麻衣で連想ゲームをしたら、まずは「コナン」「タイアップ」という言葉が「宇多田ヒカルのパクリ」の前に出てくるだろう。倉木麻衣とGARNET CROWはアーティストそもそもより楽曲において知名度が高い二組だと思う。コナンってすごい。
そもそもコナンのなにをそんなに大真面目に期待して胸躍らせ劇場まで足を運んでいるのか理解しがたいがその話は今度するとして、そういったタイアップによって彼女の活動は常に私たちに知られてきた。彼女がいつどこでどの規模のライブを行っているかは知る由もないけど今確かにテレビから彼女の新曲が流れている。それだけが頼りだった。
真っすぐな瞳に操られる
小学生の頃、習い事が多くあって、なかなか平日の夕方の時間にテレビを見る機会がなかった私は、当然コナンなど観る余裕もなかった。だけれど倉木麻衣はなぜか知っていて、そしてなぜか少し好きだった。でも好きだとは誰にも言い出せずに、ある日父親に「お父さん、あのね、何て名前やったっけな、く、、くら?くろ?くろなんちゃらまい?みたいな人のアニメの曲、何のアニメかはしらんけど、その曲借りてきてほしい」とわかっているのにとぼけたふりしてお願いしたことがある。当然父親は何を言っているのか理解できず、結局一緒についていって、慌てて棚から倉木麻衣のアルバムを抜きとりカゴの一番下にねじ込んだ。
今思い出しても彼女の何が恥ずかしかったのかよく覚えていないが、まあ倉木麻衣なんていう女性アーティストが好きだと自分から言い出すのができなかったのかもしれない。
そんなノベル少年の心をまさぐって赤面させるのは、彼女の凛としたたたずまいにあった、と結論付けてみる。あの自信満々の笑顔。卵のような輪郭と、もちもちしていそうなピンと張った頬。歌いだしてもまったく声を張ることなくウィスパーボイスで最後まで貫き、深く一礼して演歌歌手よろしく、マイクを離して「ありがとうございました」と口をパクパクさせてこちらをじっと見つめてくる。最後の最後まで、「はいカット!」の声が聞こえるまでこちらを一点の曇りもない目で語り掛けてくる。その姿勢に私自身が好きになれる自信がなかったのかもしれない。
サビの最後に英語を乗せる
日本の音楽において、英詞は切っても切り離せない関係にある。それは倉木麻衣に限った話ではない。それにしても英語のタイトルが異様に多いのが倉木麻衣という歌手である。デビューシングル「Love, Day After Tomorrow」に始まり、七枚目のシングル「冷たい海」までずっと英語のタイトルになっている(この「冷たい海」も両A面シングルで、もう一方は「Start in my life」である)。その後も15作目まではまた英語のタイトルが続き、2018年現在シングルは41枚を数え、そのうち29作品が完全に英語のタイトルなんだからすごい。
だからといって彼女は英詞を多用することはない。あくまで歌謡曲にR&Bのエッセンスを隠し味で入れる程度だからだ。曲の大半が日本語で歌われている。肝心の英語は少しだけ。彼女の英語の相場はサビ後ろにある。
I can’t say もう少しだけ I’m waiting for a chance
(Secret of my heart)Stay by my side I can 見つめてくれるから
(Stay by my side)I’ve been thinking about you いつも こころ 君のそば
(渡月橋~君想ふ~)
「渡月橋~君想ふ~」に関しては、古語をタイトルに盛り込んで京都の名所を使い、十二単で歌っているのにそれでもなお英語をねじ込むあたりがどうも倉木麻衣だ。この違和感を全く抱かずにいられるのは倉木麻衣本人とそのファンだけではないだろうか。「あれ、いつもわたしこんなんですけど」が通用するほどにキャリアを積んでいるのでなんとも突っ込みにくい。ことさら天然キャラもあいまって、「彼女の全部を許容してやろうじゃないか」みたいな空気感につつまれているのでややこしさは増していく。うん、やっかいだこれは笑
はっきり言ってしまえば、倉木麻衣に限らず大半のJPOPに含まれるサビ最後の英語は文脈世界観関係なくなんとなくでぶち込まれている。もし仮にアーティストが大まじめにこの英詞がいいと思ってそこに挿入していたとしたら、それはそれで日本人アーティストのセンスを一から疑い始めなければならなくなると思っている。
「でこぼこ道からfly away」なんて中々思いつくもんではない。ましてや「桜」の韻を踏みたいがために「咲くlove」と歌って締めようとするコブクロのお二人には羞恥心か何かが欠落しているのかもしれない。
決して英詞がダメだと言いたいわけではない。西洋音楽にはやはり英語などが音として乗せやすいのは明白だし、例えば倉木麻衣でいうなら「stand tp」みたいな音楽は英語だからこそ生まれるグルーヴがある。あってしかるべきだし何も拒否反応を示す必要もない。だけれどもしそれが理屈ではなく「なんとなくかっこいいから」という感覚によるものだった場合「別にいいけどもしかっこよくなかったらお前それどういう惨劇が起きるのかわかってるだろうな」と一度問うてみたくなるのは理解してほしい。
それが彼女のチャームポイントだから
ただ気をつけてほしいのは、それもこれも全部彼女の天然や人柄で片付けられてしまう危険性についてだ。「でも彼女ってそういう人だから」で全てを是とし客観的な批評を「考えすぎだし悪魔的な意見だよそれは。意地が悪いね」としてしまうのは排他的に他ならない。麻生太郎が「難民は射殺する」とか「セクハラは犯罪じゃない」と言ったところで「まあそういう人だから」で済ましてまた受け流している世間と重なる。天然だから、サバサバしてるから、ホンネ言っちゃう人だから、は何かを守っているようで何も擁護できていない。その人の実像を白昼の元に晒しているだけだ。
と、こんなことを書いているが、倉木麻衣の曲に惹かれている自分がいる。コナンの映画なんて観たこともないし、コナンの映画が好きだと公言したがる女は苦手だと文句ばかり言っているが、「Love,Day After Tomorrow」を聴くと胸が躍るし、なんてキレイなメロディだとうっとりしてしまう。だからこそ、大した発音でもない英語が強引にねじ込まれていくことに苦笑いがでる。でもそれも彼女の個性だよね、と言ってしまえる世の中にしたんだからつくづく倉木麻衣という人物が恐ろしく思う。