変わってきたジェンダー観



ジェンダー。

語弊なく得意な日本語で言うと”性別に関する諸々の問題”が最近かなり活発になってきている。自分が子供の頃はLGBTQなんて言葉なかったし、オカマはおすぎとピーコ(とダンサーの真島さん)だけで、それは笑ってもいい対象だった。声ガラガラにした見た目はただのおじさんが、SMAPに抱きつくのを見ては「なんだこのおじさん」と子供だった我々は特殊な生物を見るかのような冷ややかな視線を送っていた。

時代が変わるとそれに適応しないといけない。オカマという言葉も少しずつなくなり、男が男である必要もなくなり女が女らしさを求められる事もなくなった。それは昭和を生きてきたおじさんたちだけではなく、90年代生まれの私たちにも変化を感じるものだった。

当時、中学生くらいだったろうか、中村中という人が登場し「ともだちのうた」を中居正広の金スマで披露していた時のことを鮮明に覚えている。


あの時くらいから、テレビでも盛んに性同一性障害について語られる機会が増えてきた(今ではその言い方すらなくなったが)。

次に出てきたはるな愛も、マツコデラックスやミッツマングローブといった物申す系のトランスジェンダーや女装家も次々に登場してきた。そしていよいよ2018年には三浦春馬がドラァグクイーンを演じたことで話題になった。それは決して笑うようなコスプレではなく、れっきとした一個人を熱演したものだった。それを誰も茶化したりもしなかった。

遅れているジェンダー思想



日本はそういった事象に関して遅れてる、とか言われがちだ。それはやはりそうなのかもしれない。まだまだ性に関するモラルが低いのかもしれない。セクハラにパワハラが横行し、女らしさを求められ、テレビですら未だにその変化について行けず、時代遅れな価値観を露呈して世間から叩かれることも度々だ。

正直いうと、この時代の流れに乗れるのは我々20代後半か、あるいは30代前半くらいがせいぜいなのではないかと思う。私の父親がある時に語った「俺はもう無理だ。いまさら世間の価値観は変わりましたよ、あなたも変わってくださいねなんて言われてもできない。だってこれで60年生きてきたから。だからもう変えられない。変えられない分黙るしかない。」が印象的だ。
歳を重ねていくほどどうしても価値観は簡単にひっくり返せなくなる。まあ、あの当時を生きた人たちだからこそという世代の問題かもしれないが。

日本人という国籍なのに見た目は個人であることも、日本代表として出る両親が中国人の選手も、いまいち納得がいかない。女は女らしく、男は男らしく。それは確かに古びた価値観の産物かもしれないが、それに自覚的である分、私は父親を尊敬できる。そして”老兵は死なず、ただ消え去るのみ”という名言があるが、その通り彼は閉口することを選んだ。それが老害から遠ざかる最も簡単な方法だ。



新しい価値観の創造



話を戻そう。

海外では、マッチョイズムが色濃く残っているラッパーですらカミングアウト(この表現もそろそろ言いづらくなりつつある)が珍しくなくなってきた。今世界を席巻してるLil Nas Xもその一人だ。女性もしかり。俳優では数え切れない人たちがLGBTQを表明している。

映画界でも「君の名前で僕を呼んで」や「ムーンライト」が大きな話題を呼んだ。トランスジェンダーやゲイなどのマイノリティな人たちを描く映画はきちんと評価され始め、またそれはトレンディなものになりつつある。


日本ではそこまでではないかもしれない。そんな映画はコメディにされてしまうだろう。事実、みんな知ってるゲイをモチーフにした映画が「おっさんずラブ」の時点で察するべきところはある。日本も理解が進んだように見えて、ただのBL的消費でしかない事実は深く考えるべき点だ。(個人的には「怒り」などを推したいところだが)



音楽業界も同じだろう。これだけ女性が躍進する中で、日本人はジェンダーについて語る女性シンガーはなかなか現れない。現れないことが悪いことではないが、世界の潮流からすれば少し特異に映るかもしれない。

世界のフェスは男女比が5:5になるような演者構成にしようという動きもある。それが正しいことなのかはわからないが、それが世界の流れだ。一方で日本を見てみると、まだまだ女性は少ない。そしてすごく男性的消費をされがちだ。未だにモデルが歌手デビューするときはおじさんが好きそうなビンテージロックを歌わされ、一方でミニスカートで性的な興奮を促す衣装に着替えさせられる。女性が女性のためにエンパワーメントを誇示するような人は現れない。また、メインステージに立てる女性も限られている。

例えばROCK IN JAPAN FESTIVAL2019でのメインステージには欅坂46、Perfume、モーニング娘。’19、あいみょん、ももいろクローバーZ、きゃりーぱみゅぱみゅの6組しかたっていない。これは全35組の中の17パーセントにしか満たない数字だ。決して多いと言い切れる数字ではないだろう。無理に50%にする必要があるかは検討も必要だが、本当に実力と人気が性差なくステージ割に反映されているかはこのフェスのみならず、あらゆるフェスで見直されるべき問題かもしれない。

“ガールズバンド”の葛藤

しかし、もうすこしミクロな視点で観ると、ふつふつといろんなことが起こりつつあることがわかる。日本の音楽シーンでも、男にウケなきゃデビューもできない、なんて時代は少しずつ遠ざかりつつある。

元チャットモンチーの福岡晃子とThe Wisely Brothersは両者の対談でこう語っている。

福岡「確かに私たちのときは女性バンドが少なかったから、男性バンドを真似するしかなくて。前例を知らないし誰も教えてくれないから、とにかくみんながやってたことをやるしかないって感じだった」
真舘「ライヴハウスって、タバコ吸う人も多いし壁も黒かったりなんだか怖かったり(笑)。でもそこで強気にいかなきゃ気持ちで負けちゃうんですよね。高校から大学にかけて全然いいライヴができない時期があって、そういう空間でどうやったら自分たちらしく音楽をやっていけるかを考えるようになってから、少しずつ他のバンドのライヴのやり方を真似しなくても、自分たちで作っていけばいいんだと思えるようになったんですけど……。でもやっぱり負けちゃうというか、弱くなっちゃうときもあったりして」
和久利「中音(ステージ内の音量)を大きくしちゃったりね(笑)」
福岡「わかるわ〜! 中音を大きくするの、めっちゃわかる。(チャットモンチーの地元である)徳島でもガールズ・バンドはすごく少なかったし、最初は女のバンドとして見られるのがすごく嫌で、〈ジーパンとTシャツ〉みたいな格好で、絶対に女の子らしくはしない、ということもやってた。

男しかいない環境で戦ってきた女性は必然的に強い。強さはそれらに負けてこなかったからだ。女性らしさは求められる一方で、女なんかに出番は与えないというマイノリティに対する圧力的なものすらある。
続けて福岡はこう語る。

あと、楽器に詳しくならなきゃ、とか思ったりね。男性の先輩って楽器教えたがるんですよ」
一同「ああ〜(笑)」
福岡「その人が勧める楽器を使わないと気にくわない、みたいな人も出てきて(笑)。〈これはあんまり好きじゃないな〉とか思いながらも、〈あ、わかりました〉みたいに答えたり、そういうのはありましたね(笑)。でも〈私も知ってます〉って会話をできたほうが対等に見てもらえるかなと思ったから、楽器屋でバイトをしはじめて」
一同「へえ〜!」
真舘「私たちもライヴハウスに出はじめたときは、高校の先輩たちがヴィジュアル系だったのもあって、そのなかに私たちだけがいる感じだったんです。そのときもPAさんとかが男の歳上の人で、結構強めに来られたりとかして。舐められないように、しっかりしなきゃという気持ちはすごくありました」

基本的に知識も力量も下にみる。だから言いなりの女になってくれないと機嫌を損ねる。そんな理不尽さもあると語る。
女性が女性らしさを求められる時、そこにはかならず男の邪な思惑が入り込んでいる。

“第三の選択肢”への寛容性

そもそも男性と女性の2者択一しかない日本社会において、ジェンダーをひけらかさないことも一つの選択肢であることはすんなりと認められていない。かならず「謎のバンド」だとか「正体不明」とか「本当はどっち?」といった、本人がオープンにしない理由をあざ笑うかのように踏み越えてくるネット記事が次々に登場する。それをそれとして受け止められないのだ。

女王蜂のフロントマン、アヴちゃんはまさにその存在だ。

・アヴちゃんをはじめ4人のメンバーは年齢・国籍・性別を非公表にしています。これは、属性よりも、音楽性を見てほしいという気持ちの表れなのでしょうか。
(少し間をおいて)そうですね、音楽性を見てほしいという意味合いは確かにあります。でも、私、本当にそういうの、どうでもいいと思っているんです。年齢や出身地などで安心しようとする人って多いじゃないですか。
たとえば、「あの女優さんかわいいけれど、私より年上なのよね」とか、「あの人、どこどこ出身なんだって」とか。出身地なんて関係ないし、年をとることは決して悪いことじゃないじゃないですか。そういうふうに属性で人を判断するのって、つまらないと思う。
レッテルがおもしろかった時代もあったかもしれませんが、これからはそうじゃないでしょ?と思っています。

もちろん男も男らしさを求められがちだ。それは様々な語られ方が存在し、そのどれもが一考の余地を残す価値ある知見である。

この本は、「男の子は〇〇だから」という一般化により、人々が社会問題にきちんと向き合わなくなる危険性も指摘している。
女の子に比べると男の子のほうがコミュニケーションが苦手だというステレオタイプがあるが、実際には男の子も女の子同様、何でも話せる友人との親しい付き合いを必要としている。それにもかかわらず、大人の男は弱みを見せないものだという考えが支配的なので、若い男性は悩みを友人に打ち明けられず、精神的な問題を抱えるようになりがちだ。
これにはニセ科学的ないわゆる「男女脳」の問題も絡んでおり、脳の性差のせいで男の子は人間関係や学業などについて女の子ほどうまくやっていけないのだ、という主張がまことしやかにささやかれることがある。
しかしながら、実際は性別よりも人種や経済格差のほうが学業成績に大きな影響を及ぼしていることがわかっており、たとえばアメリカ社会においてはマジョリティである白人ミドルクラスの男の子はそれほど学業成績の問題を抱えていない(p. 167)。
つまり、男女の差異を強調する主張は、結果的に貧困問題や人種差別を覆い隠す働きをするようになってしまっているのだ。男の子が問題を抱えている原因は生まれつきではなく、社会的なものなのかもしれないのに、人々はきちんとこれに向き合ってこなかった。


まとめ

今私たちは3つの問題に直面している。
男らしさとはなにか。女らしさとは何か。それ以外の選択肢とは何か。

まだ私たちは3つ目の選択肢を持てるほどの文化的教養がない。男同士が手を繋げばからかいの対象になるし、女性が男社会で活躍するには女性らしさが必要になる。そしてそれに対して声高に批判したり声明を発表することもない。

その一つに、無関心という問題も含まれていることは併記しておく必要がある。「なんでもいいんじゃない?」という発言は一見多様な価値観を認めた寛容的な姿勢にみえるが、実は「でも私の周りにはいないで」とか「実際目の前にいたら無視する」という無関心の表れでもあり、それはむしろ不寛容ともいえるのだ。

どの選択肢もまた尊重されるべきもので、積極的な寛容性が必要になる。
この記事の目的は自分の今の気持ちの整理も兼ねているが、こうやって少しずつでも意思を表明する人が増えてきて、セクシュアルマイノリティに限らず、女性も男性ももっとその人”個人”の価値観に寄り添う時代なのだ。誰かに押し付けられるものでもレッテル通りにいかされるものでもない。過剰な防衛反応は必要ないが、いつまでも寛容なフリをした無関心ではいられないんだという気持ちは忘れないようにしたい。

追記

流行り廃りには割と敏感なつもりでいた自分ですらついに気付かないうちに話題になって消えていった芸人がいることを先日知った。「夢屋まさる」という芸人らしい。「パンケーキ食べたい」がキーフレーズらしい。まあそんな素人のおままごとはどうでもいいとして、彼の冒頭のセリフ「どうもージェンダーレス男子の~ゆめちゃんで~す」がカチンときたというか情けなくなった。

こうやってジェンダーレスな人たちをジェンダーレスでもない(かどうかはわからないが)ただの男が半分バカにしたような形で笑いもののキャラに仕立てている事、そしてそれを何のためらいもなく笑って話題にしている日本の感性がまさにドブのような気分でがっかりする。

最近日テレごり押しのりんごちゃんにしろ、どうにもトランスジェンダーなどのセクシュアルマイノリティはいまだにバカにしてもいい(笑いものにしてもいい/笑いのネタに使ってもいい)という風潮が抜けないのが悲しい。2019年秋に、Aマッソというお笑い芸人が人種差別的な発言をしたことで問題になり、謝罪まですることになったのは皆さんご存じだろう。もちろんそれを一切擁護するつもりもないが、それはわかりやすく差別的発言だと指さして罵る一方で夢屋まさるやりんごちゃんみたいな商業的な匂いのする(あるいはそれを結果的にバカにしているような)芸人は何も語られないというのはこの話の一連と結びついているような気がする。


なんとも言えない気持ちになった。