もう何年も繰り返し擦られてきた不倫ネタ。そろそろもう飽きてきたしそもそもどうでもいいと思っているのでいい加減やめてほしいのだが、週刊文春だけは嬉々として続ける。正直国民の大半がもう飽きてる。でも当の本人が「文春砲行っちゃおうかなぁ」とか言ってるのを聞く限りみんなが喜んでると信じ込んでるんだろう。
小室哲哉が不倫した。細かい事はさておきとりあえずそう報じられた。病気の妻を蔑ろにして。

間髪入れず取り上げるワイドショー。すると小室哲哉は引退すると言い出した。これが大きな世論の転換点となる。世論は過剰な報道に対し反発するようになった。
ところで、その一連の報道をみているとコメンテーターは必ずこう言う。「不倫は許されることではないけれど…」
どんな不倫でも必ずこの枕詞をつけてから申し訳程度の同情票を投じる。果たして不倫は許されることではないのだろうか。そもそも許すも許さないもあるのか。世間にそれを裁く権利はあるのだろうか。
誰でも手の届くところに悪が転がっているもんだから自分には全てを裁く権利があると思い込む。世間の許しがあって初めて認められる。どれだけ誰かのためになっていても。ルールの中で誰も傷つけていないのに許しが得られないせいで横綱失格とわけのわからない烙印を押される白鵬を思いだす。

セクハラもパワハラも不倫も明確な基準はない。当事者同士の許しがあるかどうかが全てであり、我々外部が線引きをして許しを与えるか与えないかの享楽的なゲームではない。ましてや「〇〇がかわいそうだ」という理論はまかり通るはずもない。
彼の場合は介護の問題すら浮き彫りになった。いや、そんなものは以前から散々報じられてきたのだが、私たちは見て見ぬ振りをしていた。しかし今回は介護の問題が絡むと思いもせず安易に突っかかってしまった。病気の妻を蔑ろにして!!と攻撃したら介護の現実を突き返されて思わずたじろぐ世間がそこにはいた。あ、しまった。と誰かが呟く声が聞こえる。

小室哲哉は偉大だった。偉大だったと後から褒めちぎってもアホくさいのでこれ以上深掘りはしないが、時代の寵児だった事は紛れもない事実である。つい先日、NHKでマツコデラックスとつんく♂の対談が放送された。そこでつんく♂は「(モー娘らに曲を作りまくってた)当時は、忙しすぎて一切新しい音楽を聴いていなかった。10年くらい新しい音楽には触れてない」と語っていた。常にアウトプットばかり求められインプットすることの難しさをしみじみと振り返っていたのだが、小室哲哉もそうだったのだろうか。求められるサウンドがあり、流行りの音楽を読み取る暇もなく新しい楽曲作りに追われる日々。すっかり出がらしとなった彼に背負いかかる世間のバッシングや訴訟問題と妻の病気。別に彼をかわいそうだとか助けてあげたいとか思わないが、人生色々ある事は間違いない。正しいことも正しくないこともたくさん起きるのが人生である。正しい選択ばかりできなくたって悪人なんかじゃない。世の中そんな曖昧でできてる。六法全書で守られた社会だったとしても人間は六法全書で語る事はできない。寺尾紗穂に「楕円の夢」という歌がある。

明るい道と暗い道
おんなじひとつの道だった
あなたが教えてくれたんだ
そんな曖昧がすべてだと

どこまでも介入して散々引っ掻き回して飽きたら捨てて、そんな世間こそ大正義で絶対的な権力を持ち合わせているのだとしたらいい世の中になるはずがない。