星野源きっかけの社会現象

4月2日。深夜に投稿された一本の動画が、のちに大きな騒動へと発展していく。

歌手の星野源が、自身のインスタグラムに「うちでおどろう」というタイトルの楽曲を発表した。

家でじっとしていたらこんな曲ができました

<中略>

誰か、この動画に楽器の伴奏やコーラスやダンスを重ねてくれないかな?

という文言と共にアップされた楽曲が、瞬く間に多くの芸能人やミュージシャンによってコラボされた。楽器をもって参加するミュージシャン。ラップで重ねるミュージシャン。全く関係ないことを呟く俳優、笑いに変えるお笑い芸人。色んな人が、星野源の意図を各々の解釈でくみ取り、壊さない程度に自由な発想でコラボが行われた。



しかし、4月12日早朝、安倍総理がこのコラボに参加、大炎上となった。
ここで政権批判や安倍批判を個人的にすることは避けるが、炎上した理由は単純に”文脈を読み取れなかった”せいだろう。何をするかも大事だが、いつだれがするかはもっと重要である。あのタイミングで政府の人間が(ましてや総理大臣が)あのコラボに参加するのは、炎上を伴って当然である。あれを楽しんでみている人たちや、音楽業界側の人間は、それまでずっと政府と補償をめぐって争い、対立してきた。市民でできることを模索してみつけたようやくのムーヴメントを、内閣総理大臣が乗っかることで全てをつぶしてしまい、もうコラボできない状態にしてしまったという観点からは、その匙加減がよくわかっていなかったと言わざるを得ない。

現在は、星野源が意図した形ではないミームが横行している。

星野の上半身だけを使用し、肩から下はそれぞれが自由に動きに合ったコミカルなことをし、星野があたかもそれを行っているかのように見せるこのミームが5月に入ってから大流行し、一部で懸念の声もあがっている。
これぞ2010年代的なネットミームの典型で、正直批判の声ももはや手遅れでもありすぐネタに走ってしまう現象は今更止めることのできない、世界的なムーヴメントになっている。

ただそれでも、何の権力も持たない市井がやるから許される。一人の力で誰かを黙らせたり封じ込めたりもできないし(集団での危険性は常に伴うが)、なにより抜群の距離感と理解がミームのひとつのおもしろさである。
もちろん意図したことと違う流行り方をするのがミームだが、安倍総理がコラボ動画に参加することほどのミスマッチはない。



SHELLYなりの”うちでおどろう”

話は変わるが、オリジナルソングを投稿したのは星野源だけではない。星野から遅れること3週間。4月20日に、インスタを始めたばかりのタレント・SHELLYが一つの投稿を投下した。

ステイホームソングを名付けられたこの歌は、SHELLYが歌詞を考え、メロディはGOWが考えた。まずはひとつ観てほしいのと、歌詞をここに掲載する。

ステイホーム
ステイホーム

ネイル行けないから
爪もボロボロ

ステイホーム
ステイホーム

どうせ家だし
今日もすっぴん

ステイホーム
ステイホーム

ポチポチしすぎて
請求怖い

ステイホーム
ステイホーム

断捨離しても
これじゃ意味がない

ステイホーム
ステイホーム

早く行きたいよ
○○(自由)

早く会いたいよ
○○(自由)

でも今は我慢

とりあえずレッツステイホーム

この動画は9.4万回再生され、さすがのSHELLYのパワーで、こちらもコラボがなされた。

しかし、星野源が300万回以上再生され、安倍総理にまで「これをやればウケる」と思わせるほどの影響力を持ったムーヴメントになったのに対し、後出しとはいえSHELLYが話題にならなかったのはなぜだろう。
その理由を一つに決めつけて、こうだと言い張るつもりはないが、個人的に星野源とSHELLYには大きな違いがあるように思えた。それは文脈と気配りだ。

星野源もSHELLYもそれなりに(というか相当)財産をもった有名人であり、とても一般人の暮らしをしているとは思えない。そして、彼ら自身も大きく収入は減ったとはいえ、非正規雇用の人や、休業に追い込まれて閉店や倒産の危機に瀕している人たちとも状況は違う。そんな中で、その人たちにも届くような形で彼らに寄り添ったり味方につけたりする行為は容易ではないし、リスクが伴う。やはり安倍総理が我々にすり寄ってきたときに嫌悪感が表れたように、SHELLYの投稿にも似たような感情が生まれた。とくにSHELLYは一般市民の生活を想定した歌詞を書いたため私にはそう感じられてしまった。

モデルでタレントの河北麻友子もこの動画の振り付けをおこなっていたのだが、

ネイル行けないから
爪もボロボロ

のところで彼女が爪をこちらにみせて泣き顔を披露する。その爪は先端から根本まで丁寧に綺麗に施されたネイルが映っていた。まったくボロボロでもなんでもなく、さすがの完成度だ(彼女のようなトップモデルにしたらボロボロ扱いなのかもしれないが、そうだとしたら嫌味だろう)。
これは本人がどう意図したとしても、嫌味としか受け取られない。これは捻くれでもなんでもなく、あきらかな配慮不足、歌詞の意味も誰が見ているかの想像力も欠如した動画だったと思う。

この状況でも外で働かないといけない方のためにも 

と銘打った歌だけど、歌詞にその人たちを包括するような表現はなく、家にいてすっぴんでネイルもボロボロでネットショッピングばっかりして家に物が増えてたくさんお金使っちゃった!っていう歌詞は、正直全くいまのムードではないし、それに気付けず発表したSHELLYの案は悪い意味で芸能界という小さなコミュニティの中で生まれた発想だった。

世間がこれだけ補償をもとめ、休業を余儀なくされている人たちで溢れているのなら、あんな能天気な動画は撮りづらい。富裕層向けの動画ならばよいのだが、「この状況でも外で働かないといけない方」を含めてしまった以上はその言い訳は見苦しくなる。


文脈を読み取る作業の大切さ

星野源から始まった歌つなぎ動画は、決して芸能人のプロモーションでもブランディングの時間でもない、という文脈を理解できなかった。どこまでも悠長で、すっぴんと歌いながら化粧をばっちり決め、ネイルも綺麗に施して「ボロボロ」なんて言って誰が共感するのだろう。おそらく共感する人も、この一連の歌つなぎ動画の意味や意義を理解しないただ可愛い姿が見れれればなんだっていい河北麻友子ファンのみだろう。



星野源は「”お”うちでおどろう」ではなく「うちでおどろう」と題したのは、ホームではなく、インサイドと仮定したからだ。まさしく「この状況でも外で働かないといけない方」を想定したのだ。これを気遣いというのだろう。これを誰も排除しないという。

安倍総理にしろSHELLYにしろ、全ては文脈とムードを理解しないでフォーマットだけ真似たことに起因している。それだけ難しくて、慎重な姿勢が求められるのだが、そこさえ踏まえれば、決して叩かれることはない(一部の過激な人はなんでもキレるのだが)。
側だけ見れば楽しそうでやってみたくなる気持ちはわかるが、そんな単純な話ではない。文化も同じだ。ヒップホップを理解せずに恰好だけ真似てダジャレみたいなラップを披露していればそれは「文化の盗用」に当たるし、多くのバックラッシュを伴う。そこには当事者たちや勇気づけられた人たちの心を踏みにじる植民地主義がにじみ出る。

だから私たちは勉強しないといけないんだって思う。色んな人がいる世界で、わかりあえないからこそ、勉強して少しでも彼らを傷つけないように、誤解されないように丁寧に紐解いていく必要がある。

私はこの件でSHELLYの悪い芸能人態を見せつけられたようで、好きなタレントだっただけに残念だったし、乗っかった人たちも少し仲間内間が強すぎたように思う。謝罪とかはもちろん求めないし、やってはいけないとも思わない。それで楽しんでいる人たちがいるならそれでいいとも思う。ただ、もう少し学びの姿勢と広い視野があれば、素敵な試みだったのになと思ってしかたがない。