所ジョージの自由さ

所ジョージは自由人だ。世田谷ベースと呼ばれるガレージを持ち、そこで自由奔放にモノづくりやコレクションにいそしんでいる。決して焦らずがめつくかず、自然体でテレビに出演し飄々としている姿は多くのサラリーマンの模範像だ。

ただ、所ジョージが全く無計画で何も思考を働かせず本気でぼーっと生きているわけではない、というのは本人が明言しなくても大人なら薄々気付いているだろう。彼なりの哲学があり、信念がある。そこに「がんばりすぎない」「すきなことをする」という明確な芯があるから、意図的に自由奔放になっている。彼は”所ジョージ”という人間を作り出し、その出来上がった人物像に彼自身が乗っかっている、ともいえる。

一時期「フリッツ・ハラー」っていうイタリアの家具が流行ったときも、本当に良いものかよ?って疑って、特別な工具がいるんだけどそれも知り合いに譲ってもらって分解してみたの。そうしたら、なんだよ!みたいになって。そういうのっていっぱいあるの。みんなが珍重していいなーってなっているのを、「中身はこんなだぜ」って思えるのが面白い。それに本質に対する価格なら納得できるんだけど、本質+人気という付加価値は芸能界にいるわりに認めてないんです。本当は付加価値なので素直に認めてもいいんだけど、付加価値が付いたならそれに追いつくぐらいはしてくださいよっていう気持ちがあんの。だから自分に付加価値が付いたら、俺はそこに追いつこうとするもん。付加価値をキープしようとするんじゃなく、付加価値に追いつこうと努力する人が素敵な人だと思うんですよ。

所ジョージは本心しか言わない。でもわがままとかいじわるにはつながらない。むしろそこと対極にある存在だ。自由なのにわがままにつながらないのはなぜか。それはどこまでもシニカルで本質的なまなざしがあるからだ。
付加価値を認めないと公言するのは、その最たる例かもしれない。彼は自身の音源を収録したアルバムを700円で販売し、利益をとることを重視しない。

所ジョージ:そうなんですよ。それのほうが面白い。だから今回のアルバムもそういうアプローチをしたくて、今回はできるだけ安く売っちまおうと。

――できるだけ安くっていう発想がイカれているなぁ。

所ジョージ:なんだろう…みんな歌を2千円とか3千円でアルバムを売ってて、僕は「価値ねえよ」って思ってるんですよ。

――ひどい(笑)

所ジョージ:「そんな価値ねえよ、お前らに」って(笑)。

3000円で売り上げた利益も結局つまらないことに消費してしまうなら、その利益では手に入らない面白さの方を選ぶ。自分の付加価値を認め過ぎず、経験による価値を重視する。多くの人が彼に魅了されるのはその部分なんだと感じる。

本音で歌う事

日本の音楽産業において、本音で歌うことは簡単ではあるが、そんな単純なものではない。愛や恋について本音で歌うことは簡単でも、思想や宗教について安易に歌詞にすることは難しい。
ましてや音楽以外の場で政治思想などを表明することは多大なるリスクを背負う。自由に生きるとは程遠いのが現状だ。

日本って、いや日本だけかはわからないが、真っ当にビジネスすることが凄く持て囃されてるというか、そこに美徳を感じている人が多い気がする。やりたいことだけやって仕事につながらないなんて子供のやることだ、わがままだ、大人として失格だ、みたいな、所ジョージに憧れる一方で、所ジョージの自由さは否定し、所ジョージの勤勉さのみ押し付けられる。。ちゃんと仕事して人の期待に応えてやることやるのが本当の大人だ!という姿勢。だからサラリーマン志向が蔓延っている、ともいえるのではないか。

自分はというと、10代の頃は通して大人を嫌い商業主義を嫌っていた。タイアップなんて魂を売るミュージシャンにとって死を意味する行為だし、自分で曲書いてない奴なんかもはやミュージシャンですらない紛い物だ!とか思っていた。だからバンドを好きになって、インディーズの音楽を好むようになる。テレビに出ない人こそが正しくて、タイアップや他作、あて振りなどはクソでしかなかった。

20代になると、次第にそういう「ちゃんと仕事をしろ」という大人たちの言うことがわかるようになってきた。自由に好きなこと歌うのは誰だって出来るけど、ちゃんと発注を受けてそのリクエストにきちんと応えながら、かつ自分の表現したいこと、自分らしいことを実現していくミュージシャンのかっこよさに気づくようになる。音楽でビジネスするってかっこいい。制限のある中でいかに表現するかっていう創意工夫こそが大人の姿勢であり本物のミュージシャンだと改心するようになる。そして私は一人前の大人として認められるようになった。「商業音楽はクソだ!」と言うと「いやいやわかってねぇなおまえ。まだまだガキだな」とたしなめられる事はあっても、「ちゃんとビジネスしながら音楽やってる人ってかっこいい!」と言って「ふざけんなテメェ!」と食ってかかる人はいない。「わかってるね、君」と頭をクシャクシャされるのだ。

ビジネスと自由

所ジョージはまさにその延長線上にいる。彼は自分の付加価値を過信しない。だから「何を求められているか」は最低限しかこなさない。あるいは”自由であること”を結果的に引き受けている。それも所ジョージのブランディングになるからだ。

若いミュージシャンも少しずつそのヴァージョンに更新されてきている。「何を求められているか」は最低限応えるのみで、「何をしたいか」「何をしている自分を売りたいか」が許され、そしてそれがビジネスにつながることが証明され始めている。次第に事務所の決めた方針ではなく、ミュージシャン自身がやりたいことをブランディングしていく方針に代わる。野田洋次郎が「自分の言いたいことを言う」を成立させているのは彼自身がブランドになっているからだ。求められるもの、例えば愛について語るとか、歌いやすい曲をつくるとか、そういったものもちゃんと届けながら、幅広い楽曲や思想を提示していく。
星野源がドラえもんを歌うまでに、多くの人(お茶の間)に音楽を届けることを使命感としているのに、2019年にsuperorganismと共作して全編英詩を歌ったりと、世界へのモードに切り替えられるのも、星野源の行動についていく人がいるから。

個人としては、この流れがとてもうれしく思う。もちろんゆずやいきものがかりのような使命感を持って全力で求められるものに乗っかっていく人たちも素敵ではあるが、同時にそうした所ジョージのようなスタンスの人たちが最前線のポップシーンで活躍するシーンも大切な事だ。

最後に少し関係ないが、どんなひとであれ個人的な思想を表明することは自由だし、それを「がっかりした」なんて言葉でくさすのは自己の許容範囲の狭さを露呈しているだけなので、心にとどめてそっとそのアーティストのフォローを外しCDをゴミ箱に捨てればいいと思う。もちろんあなたの「がっかりした」もミュージシャンの「こう思う」も表明する自由は担保されているが、あなたの「がっかりした」は表明だけでなく、だから改めろ、表明するな、という押し付けも含まれていることがある。

だれがどんな感想を持とうが自由だけど、自分の感情や意見を相手に押し付けたり認めさせようとしたリ、バカにしたり軽蔑したりすることで発言を無碍にしたりすることは、決して褒められたことではないと思う。