ラッドファンを続けてきて15年がたち、ここ5年ほどはゆるやかに彼らの全行動までは把握できなくなり、ついには前回のツアーにいかなかったくらいには熱はさめているけど、それでも全カタログは買って集めているくらいで、それなりに新曲「うるうびと」にも注目していた。

そもそもRADWIMPSが映画主題歌を担当するのは、初めてではない。。というのはいわずもがな。天気の子とか君の名は。とかいろいろある。自身が主演を務めた「トイレのピエタ」に始まり、「キネマの神様」そして今回の「余命十年」である。楽曲提供としてはadieuの「ナラタージュ」が映画「ナラタージュ」の、illion名義では映画「東京喰種」に「BANKA」を提供している。

「トイレのピエタ」以外は未鑑賞なので否定も批判もできないのだが、なぜだろう、全く見る気が起きない。特に今作「余命十年」は見る気が起きない。きっとラッドが主題歌やるくらいの作品なんだ、2000年代によくあったクソつまんないヒロインすぐ死ぬ不治の病系の映画ではないと信じたいのだが、それを上回る「小松菜奈と坂口健太郎」というパワーワード(そして後日、やっぱりこの映画は不治の病だったことを知り心底がっかりした)。

どうしてラッドはつまんなさそうな映画にばかり曲を作るのか、と思うのと同時に、ラッドはもう自分のような感覚の人間をマーケティングしていないのだとも気づく。こんな映画を何十本もみて音楽をたくさん聞いてブログでうだうだ管をまくめんどくさいオタクを相手にしておらず「小松奈菜かわいいい!!!!」「坂口健太郎かっこいい!!!」「なけるうううう!!!」とありがたく絶頂してくれる10代を相手にしたいのだろう。

だとしたら、もう好きなようにかいてやろうと踏ん切りがつく。相手にされていないなら、ラッドよ、さらばだ。また逢う日まで、なんて言わせてもらおう。

ラッドとは親交もある菅田将暉が玉石混交の映画に多数出演しているのは、彼が商業的に優れた俳優であることと、文化的にも優れた俳優であることの両立を果たしている証拠だ。彼は決して素晴らしいといえないくだらない映画にもちゃんと出ているが、だからといって彼の俳優のキャリアに傷がついたり評価を落としたりすることはない。ラッドもそうだ。とはいえ、どうにもさすがに石が多すぎる気がする。石って、この「うるうびと」のことだ。

まず歌詞があまりに平凡だ。いつもの野田洋次郎の手あかまみれで新鮮味がない。”全人類から10分ずつだけ寿命をもらい君の中どうにか埋め込めやしないのかい”、はラッドファンなら容易に「マニフェスト」の”日本国民一人一人から一円ずつだけもらって君と一億円の結婚式しよう”を思い出すだろう。ただ、「マニフェスト」があくまで政権への痛烈な皮肉の上で歌われたからかいのワードであったのに対し、「うるうびと」は大まじめにそう願っている。「25個目の染色体」以降、たびたび洋次郎の分配法則は登場するが、これが皮肉でもなんでもなくラブソングとして機能しているのが、もう自分の中では「ないなあ」と思ってしまう一因である。

また、「~ないのかい」「せーの」といった洋次郎節はいつも以上に炸裂していて(過去にその記事も書いています)、聞き飽きたなあその言い回し、というのももはや定例化してきた。

そしてアレンジが凡庸だ。「愛にできることはまだあるかい」で頂点に達したオーケストラを加えたアレンジ力は、いつの間にか小手先で「それっぽい」を作ることに特化した力になってしまった。まったく驚きも感動もない、平凡な音楽。これが野田洋次郎の主題歌なのか、、、という感想は、映画「余命十年」とも地続きになっている。

野田洋次郎は戦争反対を明確に掲げたり、社会的なアクションが非常に多いアーティストだ。それ自体は素晴らしく、多くの発言に私も賛同するが、かれがどこまで芯から博愛主義で反差別主義者なのかはまだ私は知らない。特に、数年前に彼が優勢主義を丸出しに大ひんしゅくを買ってしまった過去など、ファンとしても擁護しづらい部分を見ると、「聞こえのいい博愛主義だがその実はマジョリティの上でふんぞり返った差別主義者なのではないか」という疑念まで浮き上がってしまう。

ここからはラッドの作品と洋次郎自身を紐づけて話すが仮定の話であり、すべてが洋次郎の意思決定の下で作られているということはないという前提の下で話す。

自身主演の映画「トイレのピエタ」や、楽曲「ドリーマーズハイ」「君と羊と青」のMVなど、度々セーラー服の女子高生が登場する。それはときに「青さ」の代名詞であったり、「刹那」のイメージを表象するものとして登場するが、それがいかに有害な男性性から描かれているかの検討は行われていたかは不明だ。私は「トイレのピエタ」で杉咲花と野田洋次郎がプールで言い合うシーンがあるが、ああいう男性が見たがっているだけの不必要な”濡れたセーラー姿の女子高生”を映像美として描ききる作品が苦手である。AVとかと原始的な出発点は変わらない。性癖を満たすためだけの雨にずぶぬれにさせる、ギターを持たせる、パンチラをさせる、などといった表現はまったく心を震わせない。

かつてラッドは「なんちって」という楽曲でこう歌っている。

とか言われちゃったりなんかして うっせーI will f*ck you if I’m gay no way?残念でした これ決定

おそらくラッドファンでここに言及する人は(ファン層的にも)だれもいないだろうが、彼らが20そこそこだったからこそうっかりで済ませられる歌詞である。近年彼らが「なんちって」を歌わないのは、洋次郎がこの歌詞の暴力性に気づいたからではないだろうか。

ただ、洋次郎自身も男性性的なノリや勢いを持っているのも、恋愛至上主義的な一面があると考えるのもあくまで想像の話であり、断言はできないが、かといって、いくらライブのMCで感動的な博愛主義を訴えたところで、それと差別主義者でないという証明とは全くの無関係であるのも事実だ。

「余命十年」に楽曲提供することがなにかを肯定することにつながるわけではないが、この命に寿命を勝手につけてそこに恋愛という人間が”行わなければならい行為”で色づけて泣こうという魂胆に異を唱えるでもなく花を添えるというのはどうしても自分のセンスとは折り合いがつかない。恋愛至上主義と言われてお仕方がない。

もしこれからラッドがもうすこしいろいろなマイノリティに目を向けるとかエンパワーメントに進んでくれるなら大歓迎なのだが、新海誠のような女子高生制服パンチラ、ラッキースケベによろこび命に限りある若くて美しい女性が最後の恋愛をすることに芸術的な美を見出し続けるのなら、私の好みではないなと思う次第だ。

要するに私に向かって歌ってくれと言いたいわけではない。彼らが10代に強烈な影響力をもっているからこそ、もっと伝えれられるメッセージがあるのではないか、と思うのだ。海外のアーティスト、BTSにしろLizzoにしろBillie Eilishにしろ、Lady Gagaにしろ、マイノリティへのサポートや意思表明がある中で、異性恋愛至上主義的なものへの加担ばかりでバランスが悪く見えるし、いかにも日本的なアーティストだなとも思う。反戦や反原発、反政府といった大きなテーマには訴えられるけど、身近なテーマには触れずに男性が描く女性の性的消費への加担や異性恋愛の美しさばかりが美としてラッドからファンへと伝わるのは、なんだかもったいないきがするのだ。

もちろん、「余命十年」の出来不出来と今の話は関係がないが。