セレブレーション

「こんな風に10年バンドができるなんて、思ってなかったと言ったらうそになるんですけど。こうなればいいなとは思ってましたが、はじめは尊敬できる先輩とかわいい後輩みたいな関係でした」と語るギターの福富。ドラムの石田がこの日をもって卒業するというライブ。Homecomings、ホムカミというバンドが生まれ育ってきた京都で大先輩のくるりをゲストに迎え、有終の美を飾る素晴らしい門出のライブになった。

去年の暮れに、ドラムの石田がホムカミを卒業するというアナウンスがあり、この京都での自主企画ライブをもって4人から3人組バンドへと変わるホムカミ。個々のプレイヤーに派手さは(音楽ジャンル的にも当然ながら)ないが、インディーロック、オルタナ、ポップパンク、ソウル、そして去年発売されたアルバム「New Neighbors」での打ち込みを用いたより空間を広く使った音楽は紛れもなく安定したドラムの功績がある。

ゲスト、くるり

5時に開演したこの日は、まずは先輩ゲストであるくるりが登場。「ブレーメン」から始まったライブは「チアノーゼ」やこれからの季節を予感させる「春風」などを披露し、ホムカミの畳野を迎えて「琥珀色の街、上海蟹の朝」を演奏、会場が一気に湧いた。その後もニューアルバムから「California Coconuts」なども演奏し、最後は「Remember me」で締める充実の1時間だった。

私はくるりは去年オトダマで観て以来の人生2度目で、前列から3列目あたりにいたので、こんなに近くでくるりの二人を観たのも初めて。もちろん代表曲といくつかのアルバム曲なども知っているし、たまに聴くほどには好きだったけれど、今回披露した楽曲の半分くらいは聴いたことがなかった。それはある程度予測していたし、まさか「東京」をやるとも思っていなかったので、驚きもしない。むしろ、そういった「ばらの花」みたいないわゆる一般的な知名度の高い代表曲をやらなくてもくるりであることを堪能できるのは、くるりだからこそだなと感じた。普通なら代表曲をやってくれないとイメージと違ってがっかりしたり、あるいはつまらなく感じたりもするのだが、どのジャンルのどの楽曲を演奏してもそれはそれでくるりたらしめるものばかりで、違和感がない。ブルースだろうがロックだろうがフォークだろうが、「あ、これくるりだね」といえてしまう。それってどうしてだろう、なんて考えているうちにライブは終わってしまったのだがこの、どの角度からみても正面向いているような気持にさせてくれるくるりという存在が、いまのホムカミによく似あう気がした。英詩で歌っていたころのホムカミでも今の日本語でしっかりと思いを伝えているホムカミも、どれもが真正面で”旧”とか”新”といった区分けはできない、そんな姿を重ねてしまう。

本編

30分の転換ののち、ホムカミのメンバーが登場、そして畳野の合図とともに「Songbirds」から始まった。

ホムカミを私が知ったのはセカンドアルバム「SALE OF BROKEN DREAMS」の時。この時から聴きなじみが良く、いいバンドだなあと認識してたまに聴き返したり新曲が出たらちゃんと意識して聴くようにはしていた。日本語詞にシフトしてからもより好きになり、映画「愛がなんだ」が大好きだったこともありその主題歌にもなった「Cakes」は私にとってとても大切な曲になった。とても大切なときにこの曲を使わせてもらったりもした。

今年、フジロックでようやくホムカミを生で見ることができ、感無量で鳥肌が立ったことを覚えている。楽曲から伝わる温かな空気感は苗場の7月のWHITE STAGEでも音源と全く変わらなかった。もっと近くで、もっとゆっくり聴きたい。今更ではあったが本気でそう思い、その数か月後にLaura Day Romanceとのツーマンライブが大阪であったため、めったにライブに行かない私もそれはさすがに都合をつけて観に行った(その時のライブレポはこちら)。

その時のMCでこの日の京都でのライブの告知もあり、これもまたすぐにチケットを取った。それくらいにホムカミに入れ込んでいた。それは2023年に出したアルバム「New Neighbers」のクオリティにひたすら打ちひしがれていたのもある。事実去年の個人的な年間ベストアルバムの1位にこのアルバムを選出したほどだ。でも、あのツーマンライブを観てから、よりちゃんとメッセージのひとつひとつに気づいた。「音がいい」「優しい」といった漠然としたイメージが、より具体的になった。私は全然ホムカミの思いにも良さにも気づけていなかったのだ。そしてこの日の単独ライブまでの数か月間、とにかく彼らを聴き続けた。アルバムをCDで購入し、歌詞を読み込み、インタビュー記事を読み、Xの発信をたどり、動画を見た。4人とも決してしゃべり上手ではないが、その中でも作詞を担当するギターの福富を中心に、ホムカミが何を考え何を伝えようとしているのかをこちらに丁寧に教えてくれる。彼らは常に「連帯」を意識しているのだ。

上述した年間ベストでもライブレポでも度々書いてきたが、ホムカミは「温かい」「優しい」といったイメージと共に語られるしそれは紛れもない事実ではある。この日ゲストで演奏したくるりのボーカル・岸田繁も「ホムカミを聴くと幸せな気分になる。形容する言葉が見つからない」と褒めていた。ただ、このやさしさは単なるチルとか日常系とかそういうたぐいだけでなく、もっと具体的でもっと踏み込んでいる。

――「Shadow Boxer」の歌詞にはどんな思いが込められていますか?

福富:「Shadow Boxer」はテーマがフェミニズムなんです。きっかけは、去年8月に小田急線内であった「勝ち組っぽい女性を狙った」という男性による事件です。モチーフとしては「ガラスの天井」(※資質・実績があっても女性やマイノリティを一定の職位以上には昇進させようとしない組織内の障壁)を使ったんですけど、あの事件のことは常に念頭にありました。韓国で同じような事件があったときに書かれた『私たちにはことばが必要だ』という本からも影響を受けていると思います。

<中略>

――畳野さんは福冨さんの歌詞をご覧になって、どんな印象を持ちましたか?

畳野:これまでもフェミニズム的なメッセージは曲に込められていたんですけど、今回はそれがいっそう強く出ていると思いました。怒り、と言ったら言い過ぎかもしれないけど、それぐらいストレートな伝え方だなって。ホムカミは「優しさ」をテーマにして活動してきたんですけど、今回はそれよりも、ダイレクトなメッセージが前面に出ていると思います。

福富:フェミニズムの問題は僕だけが考えているわけではなくて、4人で均等に共有していて。4人のステイトメントを集めたような歌詞になっていると思います。音楽だけを共有しているわけじゃないっていうのが大きいです。特に日本語詞になった『WHALE LIVING』以来は、社会的なことをちゃんと伝えようと思うようになりました。「Cakes」ではジェンダーのことだったり「Here」では社会からこぼれ落ちてしまう構造のことだったり、「i care」だったらシスターフッドだったりと、メッセージもより具体的になってきている感覚はありますね。

<インタビュー> “怒り”をなかったことにしたくない Homecomingsなりのエモ/パンク「Shadow Boxer」

優しいって色々あると思う。気遣いができるやさしさだったり、寛大なやさしさだったり。「好きなタイプは優しい人です」という人もいるだろう。でもそのやさしさに含まれる成分は正しく検証はしない。ただ漠然と自分が優しくされたいだけの場合もあるかもしれない。ホムカミは、愛する特定の人に対してだけ優しいわけではない。ましてや自分がやさしくされたいわけでもない。彼らの歌にはLGBTQ+といった人たちも包摂しようとしている。恋愛の歌も性別やリレイションシップを限定しない。

この日のMCでも「光の庭と魚の夢」の前に、いろんなパートナーシップがあって、そのことを歌った歌だとはっきりと明言していた。

「光の庭と魚の夢」は、去年の夏に同性婚にまつわる悲しいニュースを観て書いた短い詩が元になってできた曲で、様々な組み合わせのパートーナー同士が誰の目を気にすることなく、そしてどんなシステムからもこぼれ落ちることや弾かれることなく一緒にいられるようになってほしいという願いを込めた歌です。社会や誰かが勝手に決めた「ふつう」から外れた人たち向けられる異物を見るような視線やアウティングの恐怖がない場所がいつか見つけられたら、僕たちが暮らすこの国や世界がそんな場所になれたら、そんな未来に一日でもはやくたどり着くために自分がなにができるか。

「光の庭と魚の夢」のあとがき

ライブでは淡々とプレイする4人だが、この日は少し違った、ように思う。古参でもないので断言はできないが。なんどもドラムの方を振り返り、4人でひとつひとつ確かめるように丁寧に音を鳴らす。「euphoria / ユーフォリア」はギターロックでありアウトロのギタープレイはまるで天高く舞うような高揚感と多幸感が訪れる。不器用な4人が2分弱に及ぶ長いアウトロでこの楽曲のメッセージを締めくくる。「正しくいたいとさ思うことは大切なことに違いなくて」と歌う本楽曲は、彼らのメッセージの根幹のようにも思える。

「大好きな曲をやります」と一言残し歌ったくるりの「ハローグッバイ」。私はこの楽曲を知らなかったので、ホムカミにこんな曲あったっけな、と思いながら、でもメロディも展開も全然ホムカミっぽくなくて不思議に思っていたらドラムの石田がいつもはクールなのに眉間にしわを寄せ、苦しそうに叩く。それが泣いているのをこらえているのだと気づくのにそんなに時間はかからなかった。その前の「Shadow Boxer」では前回のツーマンで聴いたときは全く異なるくらいのドラムの迫力というか執念みたいなものがあって、会場を支配するような痺れがあった。それに呼応するようにこの日一番遠くまで声を届かせていた畳野。ベースの福田はいつもと変わらない落ち着いた表情だがベースの音は力強く3人の音を包み込んでいた。こちらの目頭まで熱くなって、何度ぬぐってみても滲んだ先にこらえる石田の前で背中から引っ張る畳野の凛とした佇まいがぼやけてだが見える。「ハローグッバイ」を選んだのは明らかにこの日のことを意識しての選曲なのだろうが、”始発電車とその次をなんとなく乗り過ごしてみた””退屈のなか気づかず 目に埃が入ったのか涙が出た”と強がってみせる歌詞で始まるこの曲は、今家に帰って歌詞を観ながら聴き返してみたらどうにも涙が止まらなくなる。書きながら、なんて歌だとうなだれる。”いつからかあなたのことを忘れてしまいそう””歩きたいのに雨が降っている”。どこまでも言い訳を探しているのに、こちらまで引きずられてしまう哀愁は「寂しさを手放さない」と語るホムカミのメッセージと勝手にシンクロさせてしまう。

これは私たちの歌

本編ラストで歌われた「US/アス」は、Homecomingsというバンドのアティチュードとなる楽曲であることは明白だ。

Neither alone nor just the two of us.
We will continue to be allies.
It doesn’t matter if it’s a small light for you.
We, will continue to be allies.

本楽曲の後半で語りとして入れられるこのフレーズは私にとってもとても大切な言葉だ。allies=アライとは「自分は、LGBTでは無いけれどLGBTの人たちの活動を支持し、支援している人たちのこと(日本LGBT協会HPより)」という意味を持つ単語。今この文章を読んでいる人も、初めて聞いた単語だっていう人もいるかもしれない。LGBTという言葉が日常に少しずつなじみつつあり、聞いたことある人も多いと思うし、LGBTの当事者が社会の障壁について語っていたり社会を変えようと声を上げているのをニュースなどで見たことがあるかもしれない。でも、大切なのはLGBTの人たちが声を上げることだけでなく、アライと呼ばれる私のようなシスジェンダー(心と体の性が一致している人)でヘテロセクシュアル(異性愛者)が連帯を示すことだ。世界のポップスターを見ても連帯を示す人は例に挙げれば本当にキリがない。有名な人だとレディガガは本当に先陣を切って表現していたし、テイラースウィフトだって、Coldplayだって、日本でも星野源はクィアな歌をたくさん出している。

作詞を担当する福富、そしてホムカミの4人も、アライであること、そしてアライだからこそできることを考え行動に移している。彼らはミュージシャンだ。言葉で、音楽でメッセージを届けることができる。普段よく、この人はなんで歌っているんだろうと感じることがある。ホムカミの場合はそれが明確だ。

福富:歌詞で性別を断定しないことで幅広く受け取ってもらえると思うし、インタビューやライヴのMCを通して自分たちの気持ちを話すことで、そういう人たちにも自分の曲だと思ってもらえたりするかなと思っていて。

──その動機は“救いたい”や“支えたい”とは異なりますか?

福富:というよりは、お守りみたいに感じてくれたらいいな、。そして当事者ではない人が考えるきっかけになったらいいなと思っています。この世に1個でも多くそういうものを存在させたい。海外のシーンだとアーティストが社会的なメッセージを発信するのは当たり前のことやし、そうすることで表現者として1個責任を負ってるところがあると思うんです。それを自分たちも実現できたらなと思っているんですよね。だし、楽曲の受け取り方は自由だけど、“僕たちはこういうことを思って作りました”というアティテュードはしっかり示していきたいです。

福富:ステージ上でギターを放り投げて壊すような表現にちょっと憧れもあるけど、自分にしっくりくるのは楽曲やことばで“社会や自分がもっとこうなったらいいのにな”と訴えることなんですよね。無視でも攻撃でもなく、なるべくコミュニケーションを取って、みんなの気持ちが少しずつ変わることで物事が良くなればいいなと思っているんです。

【インタビュー】Homecomingsという場所が心地いい

世の中が変わらなくてやきもきすることも多いけれど、ホムカミをみると焦ってはいけないといつも襟を正される気分になる。少しずつ変わればいい。明日ひとりの気持ちが少し変わればいい。それで十分だ。そしてそのために音楽がある。私は、あの場にいた観客みんながその思いで一致していたらいいなと心から思う。

誰もが自分らしく生きられるわけじゃない。自分をうまく表現できるわけじゃない。映画「そばかす」の主人公蘇畑佳純は取り繕ってしまう。自分らしい表現をしようとしたときに怪訝な表情を周りから向けられることに怯えて逃げ出してしまう。多くのマジョリティが想像するLGBTはずばずばと物言うご意見番だったり、華麗な服装をまとい自己表現を恐れない人かもしれない。確かにそういう人もいる。そうでもなきゃ自分の居場所を守られない側面もあるかもしれない。でももっと世の中にはアンニュイな人がいる。自分でも気づけていない人もいる。この日は披露しなかった「i care」に”名前もない気持ち 恋と呼ばないね”という一節がある。そのまま蘇畑佳純に通ずるフレーズだ。「呼ばないで」ではなく、「呼ばないね」には相手への押しつけではなく緩やかなつながりを目的としたやさしさがある。この「呼ばないね」こそがホムカミが「優しい」と言われる本質だと私は確信している。

私は畳野や福富と同年代だから、その価値観へのシンパシーは大きい。91年生まれ、平成初期の人間って、子どものころはまだまだLGBTなんて言葉は当然浸透していなかったしKABA.ちゃんは”オカマ”として笑っていたし、「ホモ」なんて言葉で友達同士でからかいあっていた。でも10代後半、20代に差し掛かる中で時代が変わっていく様を見届けることになる。そして30代になった今、それがいかに間違っているかを気づかされる。自分たちが面白いと思っていた”笑い”は誰かの犠牲と我慢の上で成り立っていたことを思い知らされるのだ。それはある面では自分も我慢を強いられる側だった。そこに自覚的だったからこそ、彼らはこのアティチュードを選択したのだろう。ある人がたまたま同性をすきだっただけで法律で禁じられ、あるひとがたまたま心と体の性が一致しなかっただけで心に秘めることを強いられる。その強い違和感はきっと多くの人が抱えていて、だからホムカミの音楽は広く届いている。

アンコール、ダブルアンコールに応え、ラストは観客の撮影もOKとなり「HURTS」。後方の緞帳が空き、KBSホールの見事なステンドグラスが4人を美しく照らし出す。

See a long movie and it’s felt just like oneself

前述したそばかすの蘇畑佳純は宇宙戦争のトム・クルーズを自分に重ねているが、そういうことなのかもしれない。福富自身もインタビューでタイタンの冒険などいくつものリファレンスとなる映画を挙げている。

It’s not day in day out. If it isn’t one thing, another. A trivial mind come to that night.

底抜けの明るさはない。寂しさからも逃げない。だからまっすぐ向き合ってそこから手を差し伸ばそうとする誠実さがある。

福富:前作に収録されている『Here』は尖った寂しさの曲なんです。社会からこぼれ落ちてしまった人たちに対して手を差し伸べている感じ。『i care』は、それぞれがばらばらでいながら、お互いに気をかけている感じです。手を差し伸べるにしても、差し伸べていいかどうかを相手に聞く。そういう気遣いは〈ほどけるリボンを手にとる 結びなおす?〉という歌詞に反映されているんですけど、相手を助ける時に、ちゃんと確認するのも優しさなんやと思っていて。僕たちのバンドもそういう感じなんですよ。みんな仲良くて、自分の心のドアを開けていても、閉めていても構わない。ただ、開いているからといって勝手に入るんじゃなくて、ちゃんとノックをする。

Homecomings 畳野彩加と福富優樹が考える、時代に合った“優しさ”のあり方 バンドとしてメッセージを発信することの意義

もうこらえることのない石田の涙は祝福のステンドグラスに反射し、なんどもお辞儀し福田と畳野に肩を抱かれながら退場していった。いままでの4人のホムカミへの感謝とこれからの3人の門出を祝う拍手は終演後に明かりがつきSEが流れ始めても鳴りやむことはなく、あの空間には確かにやさしい連帯があった。確実にそう言える、集大成のようなライブだった。

1対1の密接なつながりではなく、誰かとつないだ手のもう片方を別の誰かに差し伸べるようなつながり。手をとること、連帯すること。そんなひとりでもふたりでもないつながりについての曲です。僕たちが、そしてこの曲があなたの味方に、安心にできる場所になれますように。それがたとえどんなに小さな光だとしても、僕たちやこの曲はそんなよき隣人/Neighborsのような存在であり続けたいと願っています

「US/アス」公式MVより