邦ロック、と人はまとめがちだが、そのジャンルは多岐にわたる。シティポップもソウルミュージックもダンスミュージックもざっくりまとめて邦ロックだ。要するに日本人が楽器もってどこかと契約して音楽を発信していればほぼ邦ロックに属するってことだ。
私が音楽にのめり込んだのも、高校生の時に教えてもらった邦ロックたちのおかげである。RADWIMPSやマキシマムザホルモン、ELLEGARDENといった面々は私の青春を色濃く映し出している。
順当にいけばそこから見えてくる景色は大体皆さん想像つく通りなのだが、どうしてか私はそこには向かわなかった。DRAGON ASHや10-Feetといったメロコアやパンク、ハードコア路線は私には無縁だった。ちょうど私の10代はフェス文化がパリピ層に根付く直前だったというのも大きかったのかもしれない。確実にあと3年遅けりゃSiMとマンウィズの波に持ってかれてただろう。ちなみに門外漢の私から言わせてもらうと、pay money to my painが私たちの世代のライド系のトップなら、それは今でいうSiMっていう認識である。別に間違っていようが合っていようがどうでもいいのだが。

そんな中でもひときわ苦手なバンドがBRAHMANである。苦手な理由をあまりファンを怒らせないように丁寧に書き出してみる。

  • 男臭い
  • どの曲をきいても違いがよくわからない
  • 大きな声を出している
  • インタビューを読んでもあまりぐっと来ない
  • 怖い



  • だめだ、気を使いすぎた。なんだ「大きな声を出している」って。。。

    ただBRAHMANが売れる理由はなんとなくわかる。筋が通っているからだ。発言も行動もパフォーマンスも楽曲自体も、全てに筋が通っていて、ファンは納得しやすい。全部受け止められる。
    ボーカルのTOSHI-LOWは筋肉質で、MCをせず熱いライブパフォーマンスをする。つるむ仲間もムキムキで、ムキムキじゃない細美がいたならムキムキにさせてみせるし、彼にまつわるエピソードが多少粗暴な時があっても後輩たちには変わらず絶大なる信頼を置かれているので笑い話になる。人情に熱くて、震災関連にはどんどん関わっていく。男臭くて一直線で曲がったことが嫌いで嘘が嫌い、だから政権批判もちゃんとする。アンコールの予定調和が嫌いで、あまり行わない。一方で嫁のりょうはさらに気が強く、TOSHI-LOWも頭が上がらない。オラオラ系は大体嫁には頭あがらないのが相場だ。そもそも名前がTOSHI-LOWってのがミソだったのだ。宮田俊朗じゃいけないのだから。

    全部に筋が通っている。なにも驚きも発見もない。そりゃそんな感じなんだろう、という感想。「オラオラ系なのに意外と優しいんだよ!!!」とか「怖そうだけど奥さんにはベタベタなんだよ!!」みたいな意外な一面アピールは必要ない。だって意外でも何でもないから。そういうのを本気で驚けると思っている人たちはきっとバラエティ番組に出演した俳優がコメントを求められたときに「そうですね。ドキドキハラハラしました。あ、ドキドキハラハラと言えば、僕が4月から主演を務めるドラマもドキドキハラハラしますのでよろしくお願いしまーす!!」みたいな予定調和の番宣にも「いや番宣で来たんかーーい!!」と物怖じなく突っ込めるのだろう。うらやましい限りだ。
    もちろん、筋肉ムキムキが生理的に受け付けないというシンプルな拒否反応があることは大前提としてあるのは分かっている….。

    よく言われる”ヤンキーはやさしい”的な、「逆に」言説は多い。ムキムキの強面ほど意外と弱気、めっちゃしゃべる人ほどコミュ障。どれも確かに裏付けるもっともらしい理由がありおもわず頷きそうになる。でも待てよ、と。じゃあ普段なにかしらで迷惑をかけてるヤンキーよりも私は優しさの評価は低いことになるし、がんばってめっちゃしゃべってコミュ障を克服してコミュ障だと誰からも思われてない人にさえ「俺の方がコミュ障だから」と言い訳の弁を剥ぎ取られてしまう私は一体何者なのだろう。筋肉隆々のお兄さんが意外と繊細なんです、といわれるとガリガリの私は見た目ほどの繊細さを持ち合わせていないことにされる。どんな言い訳も「がんばらないお前に言い訳なんかやらないぞ」と身ぐるみもってかれてしまうこの辛さを一度くらいは「確かに」と頷いてくれてもいいのではないか。
    そんなに人は強くない。TOSHI-LOWだってそう。だから鍛える。だから予定調和を嫌い、弱きものを助けようと必死になる。男臭くて不器用なところがカッコいいといってくれるのはTOSHI-LOWに対してだけで世間一般に向けられたものではない。嫁の親の遺産をギャンブルにつぎ込み街金に手を出してしまうドクズの六角精児が四度も結婚できるのは「逆に」言説を強固にする模範囚だと思う。「逆に」が「逆に」じゃなくなり、「逆に」こそがスタンダードだよ、となってしまった。
    「逆に」は、ある意味でその人の本質を見抜いているように映る。見た目ではなく中身をきちんと評価していますよ、というアピールには好都合の言説だ。それは極端であればあるほど良い。TOSHI-LOWはそこをうまくついている。だから人に慕われる。だから多くのファンに愛される。でもどうしてもTOSHI-LOWの「逆に」になじめない。かといって表向きの無骨で男臭いTOSHI-LOWをまとめて愛せる自信もない。「逆に」のおかげで全部を網羅してしまおうとする周りに対してむずがゆく感じる。男らしい、でも妻には頭が上がらない。怖くて後輩いびりがすごい、でも実はまじめでやさしくてみんなに慕われている。そうやって「逆に」をうまく使えば本来ならある程度はあきらめざるを得ないような二者を両取りすることに成功する。すきまなくピッタリと張られた予防線は一歩離れてみれば信者による神格化に見えてしまう。六角精児に笑えるのは「クズ」の一面を美化せず「クズ」のまま維持しているからだ。TOSHI-LOWの後輩いびりも同じように「ダメな一面」として笑ってあげた方がこちらとしてはホッとする。ホッとするからTOSHI-LOWに心を委ねることができる。私はまだ委ねられない。そうしたエピソードを「実はそれも含めて計算だからすごいんだ」にしようとする勢いに圧倒される。
    多分あの世界でTOSHI-LOWにケンカを売る人はいないだろうし、実際彼を嫌いな人もほとんどいないだろう。バンドをやるものなら尊敬するとりあえず尊敬の対象にはなるレベルの人物だとは思う。でもこれからも彼は誰かに罵しられてほしい。「逆に」言説を持ち出さなくてもいいような、筋肉をそのまま愛せるような、TOSHI-LOWであってほしい。