ノーバン始球式とAV女優

野球の始球式において女優やアイドル、モデルといった美人が行った時の見出しが「ノーバン投球」とつけられるのは、「ノーバン(ノーバウンドの意味)」と「ノーパン(ノーパンツ、下着を着用していないという意味)」の勘違いを読者にさせるためだ。今となっては定番化されて本気で見間違う人もおらず、ある意味ひとつの定型見出しになっているのだが、根底には男性のスケベ心を狙った勘違いを誘発しようという魂胆がある。
あるいはテレビや雑誌などから新たに女優やタレントが人気になると、それに呼応してAV女優も似たような名前が出てくる。橋本環奈が登場すれば橋本性が増えるし、ヘタすれば姓名共に非常に似通った女優も登場する。それも男性が作品を探すときに本物の女優と勘違いさせるための作戦である。こうやってどんどんと刺激的で似たようなものが増えていく。無名な女優ほどその傾向にある。最近は水卜麻美アナウンサーにあやかった水卜さくらという女優も出てきている。
こうした勘違いを誘う方法は昔からよく採用されてきた。人はなぜ勘違いしてしまうのか。それは「あわよくば」の精神が見え隠れしている。「そんなわけないだろうけど”あわよくば”ノーパンで始球式をしたせいで足を上げた際にイケないものが見えているんじゃないか」、「そんなわけないだろうけど”あわよくば”あの女子アナがAVデビューしているんじゃないか」と、ありえないけどあったらうれしいなという気持ちが勘違いを誘発させる。”あわよくば”を狙った勘違いを誘発させるネット記事の見出しも、AV女優の名前も、どれも白々しくわざとらしい。なんだったら「そういう勘違いを狙ってるタイトルってのもユーモアあって面白いでしょ?」みたいな圧も感じてなおしんどい。この類のわざとらしさは到底受け止めることはできない。


MOROHAのわざとらしさが嫌い

一方でわざとらしさが是とされる世界もある。演劇の世界は概してそんなものだ。特にミュージカルや劇団などはナチュラルな演技ではつまらない。仰々しく「ああロミオ!!!」「おおジュリエットォ!!」と瞳を潤ませながら叫ばないと全然楽しくない。そこにわざとらしさは必然である。しかししんどさもないし、圧も感じない。

音楽の世界も近いところはある。だがちょっとここは私の主観が入る。MOROHAというアーティストがいる。
独特な歌唱法で語るように訴えかけるアフロ。そしてそれを情熱的なギターで支えるUK。どうだ。いかにも音楽好きなおじさんが好みそうな音楽だ。「これが本物だ!」って意気込んでそう。「最近のロックバンドは声がナヨナヨしてんだよ!」と文句を垂らせば二言目には「ミッシェルガンエレファントはどこだ!」「次世代のナンバガがいない!」と漏らす。そんなロックンロール大好きなおじさんたちの大好物、それがMOROHAだ。

さあ、皆括目せよ。
それでは、ここからがテレビじゃ伝え切れなかった、デビュー以来「ブルーハーツ以来の衝撃」と呼ばれていたバケモノの真の姿だ。
その長さもさることながら、歌詞の濃さ、そして歌の熱量の尋常じゃなさは、それまでの邦楽アーティストとは別次元のクオリティであることが伝わってくる。
”あの”曽加部恵一を唸らせたのも頷ける、そんな”事件”並の衝撃である。
バックの音がギター一本が故に、歌を構成する中での声の、言葉の割合が非常に大きく、一言一言が耳ではなく、ダイレクトに心に突き刺さってくる。

こちら、毒舌で有名だったBASEMENT-TIMESさん。べた褒め。まぁそりゃ当然だ。ここはおいしくるメロンパンはボコボコにするしMOROHAは寵愛する。わかりきってる。だからあのサイトは音楽マニアに愛されている。素晴らしいサイトだったと思う。

MOROHA、わざとらしい、で検索してみる。意外とそう呟いている人は少ない。「いかにも」刺さりそうな歌い方で「いかにも」音楽を真剣に愛してますとでも言いたげな編成。そして日常的な歌詞。もちろんそのどれもがクオリティが高く多くの人の心に突き刺さる理由もわかる。だけれど、なんだか腑に落ちない。よくできすぎている。よくできすぎていると感じたらそれはもうわざとらしさへの第一歩だ。アフロの歌い方が鼻に付くことは許せてもわざとらしさは見逃せない。

ファンの絶賛と排除

MOROHAの苦手さはファンにもある。もちろんあの特徴的な歌声が苦手だという人も少なくない。しかしどのサイトも「あの歌声には賛否両論ある。しかし…」と続く。つまり、賛否両論ある、で、もうMOROHAのネガティヴ要素は終わってしまう。「はい彼らの悪いところもういったでしょ。だからフェアってことわかった?客観的でしょ?」と言い放って次に進む。え?それで終わり?と言いたくなる。そして彼らを嫌いだといっているのは、匿名掲示板かツイッターなどで、どれもMOROHAの音楽を聴いたことあるとは思えない、あまり音楽に執着のない人達だ。音楽好きはこぞって「賛否両論あるが…」を免罪符にベタ褒めする。

とくに声に特徴があるため、好みは別れると思います。
あとは「これはヤバイ!」という単語が、嫌だという声も・・・
ただ彼らの音楽も知った上で聞くとまた変わってくるのでは。
管理人も昔、ブランキー・ジェット・シティという3人組バンドのボーカルの声が苦手でした。
バンド名の由来と「悪い人たち」という曲を聞いて一気に好きになりましたのでもっと彼らの曲に触れてみるのはいかがでしょうか?

この手法はおおよそアムウェイと同じである。初めは「私もよくわからなかったんです。むしろ嫌いでした」とこちらに寄り添うコメントを出しておいて、「でも気付いたの!彼らの良さに!」と手のひらを返す。「初めはアムウェイって聞いて俺も『どうせマルチでしょ?』と思ってたんだ。でも説明聞いているうちに、やらない理由がないって気づいたんだよ」と13年ぶりにあった友人に家に招待され、洗剤の実演を目の前で披露されながら発されたこの言葉を思い出す。

「好きか嫌いか」とか「かっこいいいかそうじゃないか」とかではなく、「なんだかよくわからないけど心を打たれる」曲を奏でるグループ。それがMOROHAだということが、きっとわかると思うので。

もはや好きか嫌いかですら評価させてくれない。あれは好き嫌いじゃない。普遍的な質を担保した最高のハートフルミュージックだ!と言う。MOROHAを評価しないのは好みで言ってるからだ。好みで言っているうちは本質を理解していない。なんて諭されても困る。ただただ困る。

自分が自分の中で棚上げにしていることや、うやむやにしていることや、あきらめていること。己の怠惰な部分、ずるい部分、言い訳がましい部分、みっともない部分。それらすべてに、否応なしに向き合わされてしまう音楽である、ということだ。
 だから楽しくないし、気分よくもない。よって、合わない人は徹底的に合わないだろうが、音楽の魅力は楽しく気持ちよくさせてくれることだけではないことを知っている人には、徹底的に刺さることになる。

何かを評価するときに気をつけねばならないのが、ある側面をほめたときにもう片方の人たちを傷つけてはいないかという事。音楽の魅力を楽しくて気持ちよいもの以外で見出している人間「なら」刺さるはずだ、という。そんな音楽は存在しないしどう捉えようが自由なはずなのだがどうしても自分が素晴らしいと思う音楽を伝えようとすると少々独りよがりになりがちだ。

アフロ:うん。本当のことを言われるのは嫌じゃない? だから俺は反発してくれる人が一番響いてる人じゃないかなと思う。例えばネットで「MOROHAが嫌いだ」って言ってる人こそ、響いてるんじゃないかな。
阿部:実は見つめるのが嫌なだけでね。
だから、そういう声に向かってやろうとしたりする。「良いね」と言ってくれる人に関しては、既に自覚してることを再確認するからヒーリングなのかもしれないね。持っているからこそ。

最後にアフロ本人のインタビューを。アフロ自身も「嫌いだという人は芯を喰らってるから苦し紛れなんだ」と言ってしまう。これは横暴な意見だ。もちろん”実は見つめるのが嫌なだけ”な人たちもいるのは事実だろうが、そうやって一緒くたにされてしまうのは不本意である。アーティスト自身がこの路線で行くとするならファンが「この音楽は普遍的な価値を持った真の音楽だ」と豪語するのもうなずける。



わざとらしさの正体

とはいえ、MOROHAのやっかいさを「わざとらしい」と表現する一方でその根拠とするものが「歌い方と歌声」だけでゴリ押す私もあまり能がないと思うので、もう少し具体的に探してみたら、ひとつ見当たった。それは先日仕事が遅くなったので帰りにとある飲食店に寄った時の事。店内で繰り返し放送されるお得なキャンペーンやアプリの宣伝。夜も11時を過ぎているというのに店内放送の女性は24時間同じテンションで語り掛けてくる。私が昔イオンでバイトしていたときに唯一ストレスをためていたことはこの無機質な放送と、クリスマスに必ずかかるドリカムの音楽だった。店内放送の女性は元気よく言う。「~~~でポイントが溜まる!!」これだと思った。この「溜まる!」は語尾が上がる。イオンでもこの飲食店でも仰々しく宣伝するときは必ず語尾が上がる。決して声の女性は心の底からポイントを溜めてほしいわけでもないが明るくハキハキとそしてテンポよく、なにか引っ掛かりを与えたい企業側は語尾を上げるように指示する。MOROHAに戻る。あった。アフロもこの語尾を上げる語り口調が度々登場する。どれと指摘するまでもなくどの曲でも語尾が上がる。だから彼はCMで重宝される。重宝されるのはそもそも彼の歌い方と企業の宣伝の仕方が同じだからだ。相性が抜群に良い。これがわざとらしさの正体か、という表現もわざとらしいかもしれない、ごめん。


わざとらしさを認めなければならないという事

改めて弁明に走るが、決して彼らをアーティストとして低く評価しているわけではない。嫌いでもない。あのリアリティのある歌詞と誰もが潜在的に抱いている闇をゴリゴリっとえぐり出すあのパワーは唯一無二といってもいい。浮ついた音楽が多かった中で、あのスタイルをとった戦略も見事だと思う。ポエティックな歌唱法は2010年代のトレンドの一つでもある。MOROHAは活躍の場をさらに広げるだろう。だけれど、いや、だからこそ、わざとらしさが残る。そして彼ら自身よりもそれらを評価する音楽通たちの「それが本当の魂の音楽ってやつです。それは私たち音楽通の総意です!」という無言の圧力。彼らのわざとらしさを認めないと、と焦らされる。わざとらしく水卜さくらと名付け(られ)て勘違いを誘おうとするわざとらしさも、「ノーバン始球式」をノーパンと読み違えても「え?そんな事書いてないですよwww」とシラを切るわざとらしさもユーモアとして認めなければならない。なんだか窮屈な思いに晒される。
ただ単に「いかにも感動路線で真理をついているかのような歌い方で真の音楽だといわんばかりのスタンス」のわざとらしさに難色を示したいだけなのにMOROHA本人もMOROHAのファンも「それは逃げだ」と詰め寄ってくる。このわざとらしさは必然だ、と言われても困るのだ。それは音楽を知っている人間ならわかってくれるはずだという安易な同意の強要も素直に飲み込めない。ファンは「万人受けしない」と言うが本心は全くそんなこと思っていない。これは真の音楽だからちゃんと聴いた人には絶対伝わると謎の自負を抱いている。ミュージシャンではなくファンが抱いている。「テスト勉強全然してない」とうそぶく優等生と同じメンタリティーだ。それでどんな批判も受け流せると思っている。現に私がこんなこと書いてもきっとみんな笑うだろう。笑って「まあ万人受けしないのは分かってることだから」とか言って私を「ちゃんと聴いてない人」にカテゴライズするだろう。まあそうかもしれないが。
音楽はどこまでも自由で力強くて人生さえ動かしてしまうものかもしれないが、「本当の音楽」と名付ける者を私はあまり信用していない。