“歌”が救いだった

多くの”歌い手”は作曲や作詞をしないため、作家性が見えづらい部分もある。作曲は影響を受けた音楽を可視化させ、作詞は哲学を知るきっかけになる。

今回のテーマであるyamaはほとんどの作品で作詞を多くの歌い手同様、第三者に依頼している。つまりyamaの作家性を知るには歌こそが大きな手掛かりとなる。もちろん、詞にも一任ではなく共作の形で歌いたいテーマ、納得したものを提供してもらっているのは自明だが、自作自演のアーティストに比べて見えづらいというのは事実としてあるだろう。「春を告げる」で一気に人気アーティストへと駆け上がったyamaを観ていると、その素顔を覆う仮面から「謎」や「孤独」といった言葉が付きまとっているように感じる。事実、「春を告げる」を制作した時も、作曲を担当したくじらとSNSでのやりとりのみで、お互い一人で何度も何度もリテイクを重ね練り上げたものだったと語っている。

音楽が唯一褒められた、と自己肯定として存在意義にもなっていた歌がyamaにとっての糧だった。

yama:特に何かきっかけがあったわけじゃなかったのですが、歌うと周りの大人たちが喜んでくれたり、褒めてくれたりするのが嬉しくて。気づけば歌うことそのものが好きになっていきました。

yama、これまで“明かしてこなかったこと”を語るーーシンガーとしての挫折から、クリエイターらとの制作エピソードまで

また、これもよく言われる言説だが、サブスクによってアルバム単位で聴かれなくなったとか、シャッフルすることで曲単位でアーティストを好きになる人が増えているという文言は、yamaにも当てはまっていることがインタビューからわかる。

サブスクでジャンル問わずいろいろ聴きますね。これまでは自分が気になる曲しか聴いてこなかったんですが、周りからおすすめされた曲はすべて聴くようになりましたね。でも、特に追いかけてるアーティストはいなくて、曲単位で聴いてます。

yamaにスペシャルインタビュー! 謎多き歌い手が語る「人生の意味」と「春を告げる」後の音楽。

すると、yamaのアルバムがあらゆる作曲家によって作成されたオムニバスアルバムのようなごった煮感になっているのもyamaらしいと頷くことができる。非常にキャッチーなメロディにyamaの独特で稀にみる澄んだ美しい歌声がマッチすると、その勢いはとどまることを知らない。vaundy作曲の「くびったけ」や川谷絵音とのタッグの「スモーキーヒロイン」など、ボカロPだけでなはいJPOPをけん引するミュージシャンとも相性はばっちりであることはアルバムで証明できている。

非科学的なピュア性

その中で、「世界は美しいはずなんだ」はACIDMANの大木伸夫が楽曲提供をしている。「はず」というのは、当然そうであると思っているのに断定ができずにいる様だ。それはyamaが歌がすきな”はず”で、自分をまだ好きになれず、少しずつ許せるようになってきたと語るyamaの心境と親和性が高い。

大木 そうですね。yamaさんのために書いた曲なんだけど、僕自身のアイデンティティや「この世界に対して歌いたい」と思っていたことも表現したくて。yamaさんにそういう部分がなければ外そうと思っていたんだけど、実際に会って話したときに「大丈夫だな」と確信したんです。世界の美しさを信じようとしていたし、一方では、若い世代特有の葛藤や存在の不安定さもあって。「世界は美しい」と僕らは言い切ることができるはずなんですよ。僕はいろいろな経験を経て、そこにたどり着いたんだけど、yamaさんはまだ不安を抱えているし、自分自身の揺らぎとも戦っている最中だと思っていて。ときには葛藤したり、反抗することもあるけど、心の中では世界を信じたい。だからこそ、闇に向かうのではなくて、星に手を伸ばそうとする瞬間を描きたかったんです。

音楽ナタリー

大木の指摘はおおよそ的確で、yama自身の揺らぎを見抜いている。だからこそ「美しい」ではなく、「美しいはず」と歌う。「そんな言葉は信じないさ」と突き放す1番、「そんな言葉を信じたいんだ」と歌う2番では明確に差がある。

自分自身、「世界は美しい」と言い切れない部分がまだあるし、自信もないんですけど、「それでもこの世界で音楽を続けたい」という思いは強くあるんです。そういう状況と重なる歌詞だし、自分自身も救われた気持ちになりました。あと、「きれいなだけでは終わらせたくない」という意識もありました。透明感のある曲なんだけど、必死に手を伸ばしている姿も表現したかったので。

音楽ナタリー

大木はその後、自身の苦悩との向き合い方について語っている。

大木 ミラーニューロン(他人を理解する能力のもとになっていると言われる神経細胞)とも関係しているんだけど、しんどいときは鏡を見て無理にでも笑うようにしているんです。そうすると脳が「楽しい」と勘違いして、2週間くらいすると自然に笑えるようになるんです。おまじないみたいなものだけど、常にポジティブでいるためによくやってますね。

音楽ナタリー

ミラーニューロン、というのはよくビジネス書や自己啓発で多用される脳にまつわる話だが、ややそれが安直に使用されている。「世界は美しいはず」という綺麗事は、やや都合よくビジネスパーソン向けに歪曲された科学によって色づけされていたと知ると、少しミュージシャンへの解像度が下がる。

ミラーニューロンが誤解されていることを指摘する論文や記事は多数あるが、いちどビジネスパーソンに都合よく解釈されてしまったら、それは元に戻すことは極めて困難になる。真実はこの際大したことはなく、大事なのはそのエピソードから何を学びどう行動するか。科学をある意味で軽視するのはビジネスにピュアな会社員も世界は美しい”はずだ”と信じるピュアネスを持つミュージシャンも同じかもしれない。

「それでも僕は」では自身が作詞作曲を担当しているが、そこにもやはり「それでも」といった”あがき”の姿勢がある。「世界は美しいはずなんだ」と闇雲に信じたがる”あがき”はyamaにもしっかり受け継がれている。

肉体的なクリエイターの限界

yamaは作詞をしようと思ったきっかけを以下のように語っている。

ーーそして最後の「それでも僕は」では初の作詞作曲を手掛けてます。そもそもなぜ自分で作詞作曲をしようと思ったんですか?

yama:シンガーとしてある程度評価されたのは嬉しいんですけど、それ以上にクリエイターとして評価されたいという思いがあって。昔は自分の言葉が陳腐だなと思って嫌だったんですよ。でも今は自分の言葉で歌いたいと思うこともありますね。何よりこれは夢ではあるんですけど、作家として評価されるくらいになりたいなとも思ってて。というのも、ボーカルは寿命があると自分は感じてるんです。肉体が衰えていくとともに声も衰えていくので、いつか歌えなくなった時に自分はどうやって表現していくんだろうという不安があって。自分は今のところ表現の手段が歌しかないから、作詞作曲にちゃんと力を入れていきたいと思ってます。

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歌は肉体的な表現だ。そこには衰えもある。表現者として力をつけたいという願望は、あらゆる想定をした上での挑戦だ。書けば書くほどその力はみについていくだろう。

三浦大知のエンターテインメント

話は変わるが、三浦大知は最も肉体的な表現者の一人だと思う。ダンスと歌。作詞や作曲は共作あるいは委託することが多い。特に、Nao’ymtが全編を手掛けたアルバム「球体」は、三浦大知は完全に肉体的な表現者として徹し、Nao’ymtの世界観を具現化することに努めた。Nao’ymtは、このアルバムの制作時のエピソードとしてこんな話をしている。

実は、制作しているとき、「この作品は人々に受け入れてもらえるだろうか」と大知くんにぼやいたことがあって。大知くんは「それは自分がエンターテインメントにします」って言ったんですよ。「エンターテインメントにできるんで、大丈夫です」って。めっちゃかっこいい! と思って(笑)。深夜のコンビニでの話です。それで自信を持って、弱気にならずに行けたんです。

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エンターテイナーとしての自覚。表現者としての矜持。クリエイターとは作詞作曲のみのことを表すわけではない。難解で抽象的な作品をエンターテインメントに落とし込む作業もクリエイターだ。むしろそれほど難しいこともない。誰にでもできることでもない。私は「エンターテイナーとは何か」の回答を得られたような気がした。

まとめ

yamaはこれからどう進んでいくのかは、yamaがどのようなクリエイターになりたいか次第だ。「それでも」「美しいはず」といったん醜い自分や世界を受け止めながら、不退転の覚悟で進んでいくと誓うyamaの作品には、残酷なピュア性と肉体的な表現の限界を悟った暗澹が潜んでいる。そこに一縷の望みをかける繊細さが、yamaにはある。