宮下草薙の関係性

草薙のネガティブな妄想を宮下がたしなめる。そしてそれを上回る被害妄想を草薙が垂れ流し、最後には「勝手にしろ」と宮下に突き放されるパターン。それが宮下草薙のフォーマットであり、彼らの人気の理由でもある。

草薙はそのルックスと愛嬌のあるネガティブが妙にウケ、人気がどんどん加速していく。最近では番組、ロンドンハーツにて田村亮の代役としてサブ司会のポジションにいたり、お昼の番組に出演していたりと、幅の広い活躍を見せている。
人は経験の数だけ成長するとはよくいうが、草薙の成長はまさに経験そのもので、これだけ順調にキャリアと実力をつけてきている芸人は数少ない。よく並べられるEXITや霜降り明星にもない王道路線を突き進む。

コンビ間では、宮下が”じゃない方”として扱われる。それを覚悟した上で、草薙を何とか売れさせたいという気持ちでコンビを結成したと語っている。”じゃない方”のカテゴライズは当然心地よいものではないはずだが、かつての”じゃない方”はそれを甘んじて受け入れてきた節がある。しかし宮下は、そこに価値を見いだせないと口火を切る。どうにも今っぽい姿勢だなと感じる。

「経験のある草薙が正しい」「自分はただのお笑いマニア、マニアの言うことなんて戯言、現場で通用するはずない」「このコンビに宮下が必要ないって最近思っている」と自分を卑下し続ける宮下。

草薙の「おこぼれで出演している感じがすごいイヤ」と漏らし、「一度、解散してゼロからピン芸人としてやりたい」と解散すら考えているほど悩んでいたと明らかに。

草薙もこの宮下の本音は初耳だったようで、コンビとしてこれからもやっていきたい、喋らなくても隣にいてくれるだけで安心するとフォローしたが、宮下は「隣りにいるだけの芸人って必要ですか?」とネガティブな意見を口にし続けた。

また、大の映画好きでも知られる宮下。お笑いマニアでもあり映画マニアでもある彼はカルチャーに精通していて豊富な知識があるのも強みとして持っている。

宮下兼史鷹 そうですね。1カ月に稼いだ給料を全部使ってDVDを買っているような時期もありました。実家には余裕で1000枚くらいあります。

──けっこうな枚数ですね。

宮下 17歳くらいから働き始めて、大好きなシュワちゃん(アーノルド・シュワルツェネッガー)の映画を全部観ようと思って買い集めたんです。そこから映画好きがよく観る「ショーシャンクの空に」や、スタンリー・キューブリックの作品、最終的にはヤン・シュヴァンクマイエルとかマニアックなところに手を出したりしました。

一方草薙はそこに関してはアクセスがない。

──草薙さんはいかがですか?

草薙 僕はずっとあんまり映画を観ていなくて、映画館もこないだ12年ぶりくらいに行って、宮下と「ミュウツーの逆襲 EVOLUTION」を観ました。宮下に「これ面白いよ」っていうのを教えてもらったり、DVDを借りたりして最近は観るようになりました。

ただ、宮下はインプットが先行して、うまくアウトプットに繋げられない。語る事はできてもうまくそこを昇華できない。もちろん宮下が聡明な人間で、漫才を見ても宮下のしたたかさと、草薙を支える根気強さと地力の強さを感じされるが、一般的には”じゃない方”としてみなされる。

世間では、草薙を天才肌というのかもしれない。


勉強の必要性

個人的にすごくわかるなって思うのは、笑いや表現物を語ることが得意な事と、笑いに変えることは同義ではない、ということ。草薙はそういう知識はなくても、現場で培ったニュアンスがあり、宮下よりも機敏に察知し面白くすることができる。宮下が面白くない、というわけではないが、草薙のアウトプット力は若手でも群を抜いている。
それは宮下も「経験のある草薙が正しい」「自分はただのお笑いマニア、マニアの言うことなんて戯言、現場で通用するはずない」と言う通りに、認めているところでもある。

ただ、お笑いがもっと勉強、分析の学問である意識を持つことは大切なんじゃないかなあと、思ったりもする。決して宮下を「頭でっかち」と見下したりはしない。やはり長い間売れ続けるような人は、誰かから学んだり、自分で勉強していたりするものだと思う。

例えば音楽なんかもそうで、勉強しないといい音楽は中々作れない。理屈を知り、歴史を知り、フォーマットを知り、名作を知る。だから過去の参照は大切で「好きな音楽を好きなようにやる」だけじゃ音楽って多くの人に届かなかったりするのだ。
もちろん注釈は必要で、狭い世代の狭い人たちに届けるためだけならそれほど過去の参照や勉強も必要なかったりする。全員が全員、古典から勉強しないといけないわけでもないし、ましてや音楽を作ってはいけないなんてこともないのは大前提である。ただプロである以上そこから逃れるのはすごくいやらしいし、そういった視線は甘んじて受け入てほしいものだ。

芸人に話を戻すと、人を笑わせるってすごくシンプルで、子供のころから大なり小なり慣習的に行ってきたことなので、どうしても培ってきた経験値で戦ってしまう芸人もでてくる。そういうのは一発屋芸人として長期的な人気を保つことはできないのだが。
そのためのNSCであり、養成所なのになあとも。

太田プロの養成所で出会ったふたり。笑いのセンスに絶大な自信を持っていた宮下と、高校卒業後に「とりあえず」養成所に入った草薙。養成所の生徒だけで順位を決める合同ライブで草薙はめちゃくちゃ笑いをとって1位になる。自信満々な宮下が初めて負けを認めた瞬間だった。その後、元々ピン芸人志望だった宮下が、解散を繰り返し芸人を辞めようとしていた草薙を引きとめ「宮下草薙」を結成する。

ただ、僕がはじめて「勝てないな」って思った芸人ではありますね。コンビを結成する前って、僕はピンでお仕事をいただいていて、順調っちゃ順調だったんですよ。その時、草薙は別のコンビを組んでいて、結果が出ずに悩んでるような状況で。僕としては、「オレより売れるんだろうな」って想像してたのに、自分より下のところでくすぶってる感じがなんかちょっと嫌だったんです。

だから、自分で言うのもあれなんですけど、当時の心情としては僕がヒーローだと思って(笑)、アイツとコンビを組みました。「もったいないな。救ってあげなきゃ」っていう感覚でしたね。ずっとピンでやりたいって思いがけっこう強くあったんですけど、人のためだから「コンビ組むか」って思えたところはあります。

Vaundyの語り

相変わらず長くなったが、ここでタイトルのVaundyにも触れていこうと思う。

Vaundy、という謎の存在を知ったのは2019年の10月。youtubeに投下されたばかりの「東京フラッシュ」を聴いたのが初めて。確か公開されて2週間ほどしかたっていなかったはずなのにすでに20万回くらいいってたような気がする。細かい数字は忘れたが、日々新譜とシーンの動向をくまなくチェックしているつもりだったので、彼の発見は驚きだった。

なぜ、どのタイミングで人気に火がついたのかはさだかではない。

2010年代後半から続くシティポップの系譜はありながら、泣きのコードとメロディの鉄則を踏みつつ、2019年の日本のムードにあったレトロシティ感をかもしだしていて、完全に若い人の心をつかんでいるなと感じる一曲だった。

彼のルーツを紐解いていくと、2017年7月に音楽塾ヴォイスというところに入塾している。
それまでの彼は、ボカロを中心に聴いていたと言い、入塾後から音楽性を高めるために洋楽も聴き始めたと語っている。
驚くのは、それまではパワーコードを多用していたということだ。パンクに近いジャンルの楽曲を制作していたのかもしれない。

音楽塾ヴォイスはYUIや絢香、家入レオなどを輩出しているスクールで、私でも知っているくらいの知名度の高いスクールである。

ただ、Vaundyが単なる耳触りの良いメロディと横ノリができるだけのミュージシャンならここまで跳ねることはなかったように思う。彼の神髄は、自身を「ギターを持ってる語り屋の天然パーマ」と名付けるように、「語り屋」であるところにある。そしてギターが必ずキーとして使用される。ピアノも打ち込みもあるが、そのうえで奏でられる寂しげなギターが哀愁を加速させている。

「不可幸力」では「welcome to the dirty night」とコーラスで繰り返し、「どこに行っても行き詰まり」と半虚無精神が垣間見える。どこか諦めがちで、その中での美しさを見出そうとするのは、あまりに時代性にフィットしすぎではないだろうか。

「life hack」ではさとうもかをゲストで招聘し、ここでもやはりギターのリフが印象的である。まだ弱冠19歳という事実を忘れてしまうほどの洗練されたポップミュージックである。

「pain」や「僕は今日も」のような、家族観や生死観すら赤裸々に吐露していくことこそ彼の表現の根源であり、ウケのポイントである。知らず知らずのうちにリスナーは彼の言葉も音楽の雰囲気として形成させられている。

もう一度「東京フラッシュ」に戻ってみると、公衆電話、古い路地裏、旧テレビサイズのフォーマットにアナログなビジュアルとどれも90年代を思い出させる構図ばかりだ。19歳の彼にとって90年代は経験のないカルチャー。それを”クール”だと捉えるのは自然な事であり、いわずとしれた世界的なムーヴメントである。ハイコンテクストなものばかりが目に付く時代に、90年代的な発想のコンテンツは韓国のNight Tempoを見れば一目瞭然だし、Dua Lipaの「FUTURE NOSTALGIA」やMura Masaの「R.Y.C」などはまさにその最たる例と捉えて良いだろう。
若いアーティストたちによるNight Tempo的なアプローチと、Mura Masa的なポストパンクや00年代的ロックへのアプローチは後を絶たない。
日本ではギターロック全盛のためにあまり実感はないかもしれないが、世界的な流れで言えば、やはりギターサウンドへの回帰は多くのメディアや識者が指摘する通りだ。

エモい、チルい、が若者言葉として定着し始め冷笑的なスタンスすら板についてきた日本社会で、Vaundyの音楽はいやにシンクロする。2000年代前半に流行した「ヤバい」は、何かに対する過剰な反応のことを表し、いつもどこかで「激○○」や「超ヤバ」と感情のてっぺんを目指す枕詞が濫用されてきたが、2010年代は「ほどほど」「ちょっと退廃的」なムードが覆っている。情報が氾濫し、取捨選択が不可欠になると「激○○」や「超ヤバ」などといちいち過激な反応を示してられない。「エモい」はその中のベストなリアクションなのかもしれない。Vaundyを激ヤバと反応するのではなく、エモい、とまとめてしまう。感情疲れを引き起こさないための防衛策である。

また、エモいの基本的な構造は、「失われゆくものを留めたいという想い」で成立している、と『エモい』論 ~文学性は現代人を動かせるのか~ではまとめている。90年代の風景や撮影方法は、まさに失われたものの宝庫で、そこにエモさを見出しているのだろう。

ジャンルレスの功罪

もうひとつ彼の特徴を言うとすれば、まだパブリックなフィジカルリリースがないという事だ。5月末に初のアルバム「strobo」が発売されだが、まだシングルを1枚もリリースしていない。これだけCD媒体が商業的に成立し、その手順を踏むべき慣習が残る中、自らSNSでバズらせるための発信を行うわけでもなく、YOUTUBEに曲をあげつづけるというのは日本では非常に珍しい。

ここまで彼を自分なりにみつめてきたが、彼は宮下草薙における宮下なのだろうか、草薙なのだろうか。
それまではエイトビートのパワーコードでごり押していた17歳の男の子が、音楽塾に入門し、売れる音楽の分析と勉強を覚えたうえで、何がウケるのか、どうすれば人の心を掴めるのかをしっかりと学んできた。

私にとっては、彼はどこまでもポップスとしての面白みにハマっていて、ジャンルに囚われない楽曲制作をしているように思う。
それはとても重要なことだと思うし、カラフルで飽きさせないポップスは至高作品だ。ただ、それが単なる見よう見まねでは評価は異なる。幅広い楽曲を作るというのは、それだけ他の人たちよりも幅広い知識を要する。Vaundyはエレクトロニカ、ロック、カントリー、シティポップとあらゆるジャンルを飛び越えているが、そこに深みは追いついているのだろうか。その判断は個々の利き手に委ねられるが、近年ジャンルをぶった切ってアルバムを制作する若手ミュージシャンが多く、単にアルバムとしてのまとまりがなく、それぞれが薄く引き伸ばしたような浅い楽曲ばかりになっているミュージシャンも存在する。正直ジャンルレスってそんな簡単じゃないのになあと思うし、事実その軽薄さは苦手だし嫌いだ。「ロックもテクノもヒップホップも好き」なのは私も同じなので、誰にでもできることだけど、だからといって「好きなものをそのまま自分で作ってみました」が通用するような世界じゃない。

ほぼ時を同じくして、藤井風もデビューアルバム「HELP EVER HURT NEVER」をリリースした。首尾一貫して世界観を保った作品をリリースしたこととは近年の流れとすごく対照的だと思う。そうした目移りしない、個性をじっくり煮詰めた作品も大切だと個人的には思っている。

まとめ

Vaundyはどうだろう。「好きな曲がいろいろあるからその感じでやってみた」は、お笑い芸人の一発屋と思想が変わらない。
彼がそうだときめつけるわけではないが、やはり芸術とは一筋縄ではいかない、常にとんでもない勉強と経験の積み重ねのものだなと感じる。宮下草薙の宮下を軽視して、その場で面白ければそれでいいなんて思想に走ってしまうのは文化としてとても危険だし、学びの意味をお笑い界も、そして音楽界もきちんと理解しなければならない。

とりあえず、まずはアルバムを聴いてみて、各々で判断してみてほしい。