今年一番泣いた(といってもまだ2月だが)映画。ずるい映画。でもそれは「感動ポルノ」と簡単に言い切れない、懐の深さと誠実さがある。それがコーダだ。

家族の中でただ1人の健聴者である少女の勇気が、家族やさまざまな問題を力に変えていく姿を描いたヒューマンドラマ。2014年製作のフランス映画「エール!」のリメイク。海の町でやさしい両親と兄と暮らす高校生のルビー。彼女は家族の中で1人だけ耳が聞こえる。幼い頃から家族の耳となったルビーは家業の漁業も毎日欠かさず手伝っていた。新学期、合唱クラブに入部したルビーの歌の才能に気づいた顧問の先生は、都会の名門音楽大学の受験を強く勧めるが、 ルビーの歌声が聞こえない両親は娘の才能を信じられずにいた。家業の方が大事だと大反対する両親に、ルビーは自分の夢よりも家族の助けを続けることを決意するが……。テレビシリーズ「ロック&キー」などで注目の集まるエミリア・ジョーンズがルビー役を演じ、「愛は静けさの中に」のオスカー女優マーリー・マトリンら、実際に聴覚障害を持つ俳優たちがルビーの家族を演じる。監督は「タルーラ 彼女たちの事情」のシアン・ヘダー。タイトルの「CODA(コーダ)」は、「Children of Deaf Adults= “耳の聴こえない両親に育てられた子ども”」のこと。2022年・第94回アカデミー賞で作品賞、助演男優賞(トロイ・コッツァー)、脚色賞の3部門にノミネート。ルビーの父親フランク役を務めたトロイ・コッツァーは、男性のろう者の俳優で初めてオスカー候補になった。

映画.comより

コーダは主人公の名前ではない。Child of Deaf Adultsの頭文字をとってCODAだ。ヤングケアラーが日本でも問題になっているが、ろう者を世話するために夢や進学をあきらめるという点では主人公のルビーもヤングケアラーの一種に含むことができるのかもしれない。

3人のろう者、兄と両親、を演じるのは実際のろう者である。つまり当事者が演じているのだ。今までその機会は健常者に奪われてきた中で、きちんと当事者が役を演じているという点で、その当事者性の課題はあるレベルではクリアしているといえる。(父親を演じたTroy Kotsurは今作品で男性ろう者として初のオスカーノミネートを受けた。母親を演じたMarlee Matlinもかつてろう者として初のオスカーを受賞しているスーパーグレイトアクターだ)

コーダは言ってしまえば典型的なストーリーではあるが、そこにいやらしさがなく、あざとさがない。それはひとえに演者の自然で心を打つ演技なのだが、家族が本当にひどく下品な手話もあけすけとやってしまうところに障碍者を美化しようとする悪質な善意が見当たらない。彼らを特別しない。ろう者もまた、恋愛したりしなかったり、ワンナイトをしたり誘惑したりする。そして下ネタを言い合うし、間違いもする。努力家でひたむきで清廉潔白といった日本の民放で繰り返し教育されるステレオタイプではなく、そういった普通がきちんと描かれているのが素敵だ。そして家族内の対立。兄の妹への思いはこちらにぐっと心をつかまれる。

父親を演じたTroy Kotsurはインタビューでこう語っている。(翻訳は筆者のオリジナルなので多少違っていても皆さんで補完して大意を読み取って下さい)

Kotsur couldn’t wait to start playing Frank. “I’m tired of Deaf people being portrayed as a victim. ‘Oh, hearing people are here to help the poor Deaf person.’ This time, in this project, I just want to show some b—, some real Deaf b—, that hey, this character’s a tough guy, a Deaf male who struggles just like anyone else out there who owns a small business. The only thing that’s different is the method of communication.”(Kotsurはフランクを演じるのが待ち遠しかった。「ろう者を被害者として描かれるのにはうんざりだ。『ああ、健聴者はかわいそうなろう者を助けるために存在するのだ』と。今回このプロジェクトで、私はただタフガイで小規模の自営業を営むほかの誰とも同じことに苦心するリアルなろう者を見せたかった。たった一つ異なるのはコミュニケーション方法だけです」)

For Troy Kotsur, playing the raunchy, loving dad in ‘CODA’ was worth the wait

そして、この映画をより深く知るには、この日本語記事が非常に役立つと思う。

「実際のろう者が使う手話をスクリーンで見てほしい」。米映画『コーダ』手話演技監督の決意

ここでは、DASLという専門的な手話の知識を持つエキスパートで、それを今作では指導係として招聘しているという記事になっている。その方のインタビューなのでだが、手話を「文化」と言い切っていることに非常に感銘を受けた。

世界には、200以上の手話が存在すると言われている。本作で使われる「ASL(アメリカン・サイン・ランゲージ)」は、単なるアメリカ英語の置き換えでなく、創造性を持った言語であるため、そのまま翻訳することが難しいという。ヘダー監督は、「DASL(ディレクター・オブ・アーティスティック・サイン・ランゲージ)」と呼ばれる、手話について全面的にサポートをする専門的な役割を、制作に導入した。「DASL」は「ASLマスター」とも呼ばれ、手話ができるだけでなく、演技に理解があり、ろう文化、歴史の知識を持って、作品の時代、地域、出演者の性別などに応じて、適切な手話を監督や俳優などに伝えるための指導や翻訳をする存在だ。

─映画『コーダ あいのうた』(以下、『コーダ』)を通して、「DASL」という役割を初めて知りました。映画制作においては、どのような仕事をするのでしょうか。

ウェイルズ:本作で私が「DASL」として行なったのは、ろう者の持っている歴史や地理的条件に関する知識、私自身の経験などさまざまな要素を伝え、映画の内容に反映させることでした。そのために手話における適切な表現を選びとっていきました。

その際に必要なのが、文化についての知識です。言語と文化は、強く結びついていて、切り離すことができないものなんです。アメリカのなかでも地域によって、手話の動作が異なります。私はまず、それを映画に反映させるところから始めました。

─同じ「ASL」でも違いがあるんですね。

ウェイルズ:私はニューヨーク州に住んでいるんですが、今回の映画の舞台はマサチューセッツ州なので、その地域で使われている手話にあわせることが重要でした。

同上

手話も地域によって違う。今までそんなことを考えたこともなかった。正直に話すと、手話は話すことのできない人の”代替方法”であり”否応なしに”あるいは”しぶしぶ””最終的な手段”で手話を使用していると勝手に思い込んでいた。そんな”最終手段”的な手話にバリエーションなど存在しうるはずがない、最小限で最短で伝わる最も的確な手話のみが使用されている、そんな思い込みが、だれに教わるわけでもなく、勝手にそう信じ込んでいた自分がいた。

しかし私たち健聴者の言葉にアクセントや方言があるように、手話にもアクセントがある。それは人がコミュニケーションツールとして使用している以上、起きることは必然的で、だからインタビュイーの方は「文化」と呼ぶ。

─これまで、非当事者である聴者の俳優が当事者であるろう者の役を演じることが多かったわけですが、それによって生じる問題は何だと思われますか?

ウェイルズ:大きな問題として、ろう者の労働の機会が奪われてしまうということがもちろんあります。聴者の俳優がろう者の役柄を演じることで、その分、ろう者の活躍の場は減ることになります。

ほかには、聴者がろう者を演じるときに、ろう者特有のステレオタイプな部分ばかりが取り沙汰されて、人間性の違いや個性の違いがあることを認めてもらえないという面があると感じています。例えば、サッカー選手でろう者のキャラクターがいた場合、ろうであるという部分にばかり注目されて、「サッカー選手」の部分がキャラクターにうまく入れ込めていないということです。ろう者がろう者の役柄を演じることは、そのキャラクターが「ろう者の人物」としてだけではなく、いろんな側面を持った個人として見てもらえる機会が増えることでもあると思うんです。

同上

ジョニミッチェルの「Both Sides, Now」を歌うシーンがこの映画のハイライトだが、この楽曲を選ぶ意図も非常におもしろい(日本なら売れてるアーティストの新曲を書きおろしてプロモーションにあてがったりするんだろうなあなんて思いながら)。

そして主人公を演じたエミリアジョーンズの、抜群に上手ではあるものの、プロっぽいあくどさのないシンプルな歌声が最も心地よく、涙を誘う。

歌っていいなあ、なんて歌物の映画で思うことはほとんどなかったのだが、コーダに関しては、その感想がまず第一に来る、それくらいに個人的にビターっとくる作品だった。