Genius

とろサーモンは出番前にネタ合わせをしないらしい。久保田は直前までダラダラする。その日、なんのネタをするかは舞台袖で決めるのが通例だそうだ。相方の村田はとんだ迷惑だと言うが、さすが久保田というか、変わり者である。

彼は興味のないことには全く記憶力が働かない。他人の書いたネタは覚えられないのだが、自分の書いた暗号のようなキーワードだけをちりばめたメモ帳は重宝する。それをみても他人にはなんのことかさっぱりわからない。久保田曰く、「どんなボケをしてどんなフリをするかだけ書いてある。セリフまで考えない」らしい。時折見せるフリースタイララップがあらゆる音楽ファンやお笑いファンから好評を得ている彼ならではの即興力である。

お笑い芸人は常に新鮮さに飢えておく必要がある。安定した笑いなど求めているようではダメだ。お笑い番組を見ていても、売れている芸人は二度と同じボケやツッコミをしない。たまに「え、こんなど深夜のローカル番組のロケでそんな面白いボケ言っちゃうん!?」と勿体無さすら感じる時もある。それでも彼らは出し惜しみをしない。

再現度もひとつの美

音楽はある意味で対照的な存在だ。同じものを求められる。完璧に再現することも一つの美とされる。お笑い芸人がよく嘆くのは、「俺たちは同じネタをすると『それ前も見た』と言われて飽きられる。常に新しいネタを用意する必要がある」というもの。一方で音楽はアンセムという言葉の通り、おなじみの曲がある。むしろそれこそ望まれたもの、というアーティストもいる。いわゆる一発屋はそれに苦しむ。新曲なんかいらねえ、あの名曲やれよ、というのは酷ではあるが当然の反応である。もちろんライブは生き物で、二度と同じ曲はない、いつもその一曲は一回きりだ、と力説する人の気持ちも分かるが、同じ楽曲が許される限り演奏され続けるという事実だけを今回はフォーカスしているのであしからず。

そういえば、今年初頭にOAされた特別番組「新曲歌ってもいいですか?」の司会を務めた東野幸治と加藤浩次は、新曲を歌いに来たAKB48に対し「俺たちは『恋するフォーチュンクッキー』が聴きたいんだよ!!」とキレて新曲(#(ハッシュタグ)好きなんだ)を歌う事を禁じた。もちろんこれはテレビでの”お願いという形だが最初から新曲を歌うことが既定路線であるという暗黙の了解を破る笑い”ではあるが、どう考えても東野と加藤のみならず、世間は「恋するフォーチュンクッキー」の方が聴きたいに違いない。
時にアーティストはその求められるものとの間で衝突し悩む。あるアーティストは一切有名な曲をやらないなんてド派手なヤンキースタイルを貫く。どうするのが正しいのかは誰にもわからない。正解などはない。その葛藤を抱えて生きていくのだ。

でもやっぱり予定調和はつまらない、というのが人間の性であり、表現者ならなおさらだ。いつだったか、西川貴教がアンコールに対して抗議したことがあった。

T.M.Revolution(T.M.R.)の西川貴教が6月29日、ライブでのアンコールについての考えを、自身のTwitterに投稿した。西川は、アンコールは強制されるものではなく、客側の求めに答えるものだとコメント。要請を受けてステージに戻っても、客側の態度が悪いのならアンコールに応じる義務はないと記した。

なるべくその場一回限りのスペシャルな空間にしたいという思いと、どうせアンコール込みで組み立ててるんだから早くやれよ、という客側のズレが生まれる。温度差はリアルに伝わる。

その場限りのスペシャル感を演出する方法として最も有効なのはアドリブである。アンコールも本来はアドリブのものだった。粋な計らいこそがスペシャル感を作る。しかし、客の中には「同じ金を払っているのにその日の気分でアンコールをしたりしなかったりするのは不平等だ」と感じる人もいる。粋な計らいは不平等を生む。粋な計らいも公平に分配される必要がある。それが正しいとか正しくないとかではない、そうでなきゃ今は成立しない。
じゃあどう公平に分配するのか。アンコールを絶対必ず何が何でもやり遂げる、という”ありき”は、いずれ西川貴教のようになる。
ここでひとつの案が、即興(リクエスト)で披露する、というもの。そのひとつの例として、コブクロを挙げようと思う。

コブクロとアドリブ

コブクロは前回のツアーでリクエストコーナーを設けた。そこで二人だけのアコースティックライブが執り行われる。客席から希望曲を募る。そこで二人が話し合いをし、即興で演奏するというものだ。コブクロの二人は、かつての路上ライブのような空気感を取り戻すためにやるのだろう。こうした”予定された”サプライズがライブを特別なものにする。「私の時だけあの曲をやってくれた」と新鮮さを与えることができる。新曲を用意しなくても特別感は演出できる。お笑いライブではなかなか難しいことかもしれない。音楽だからこそできるアイデアだ。そしてなにより”予定されて”いるから公平だ。そこに不平等は生まれない。ただアドリブで自分たちの曲を演奏することは容易ではない。まずすべて覚えなければならないし、短い打ち合わせで全てを決めなければならない。「平等にサプライズを」はアーティストにとって高いハードルになる。事実、コブクロはこのリクエストコーナーをかなり悩んだそうだ。インディーズ時代を含めた全160曲以上の中から自由に選ぶとなると、演奏する小淵は全てを頭に入れておく必要がある。リハーサルで一度すべて演奏しておかないと、本番でのクオリティが担保できない。だから小淵はこちら側が用意した曲の中から選んでもらおうと提案した。しかし黒田が
断固拒否した。予定調和は面白くない、と。内心そのインタビューを聴いた時、「おまえ演奏しないじゃん…。」と思ってしまったのだが、それでもコブクロは新鮮さを求めた。予定調和を壊そうと躍起になった。結局小淵が折れる形でこの企画は完全アドリブで事前打ち合わせなしで進行することが決まった。ライブは結果大盛況でファンの反応も上々だったそうだ。

新鮮さを求める

私たちはどう受け止めればいいのだろうか
たかがエンタメ。需要と供給。私たちは際限なく求めていいしそれに応えるも応えないも供給側次第だ。と言ってしまえばそれまでだが、人間そこまで合理的でもないしなぜか情に厚いのでついつい相手を憂いてしまう。「アンコールを”暗黙の了解”とか言ってねーでさっさとやれよ」とか、「リクエスト制度全員導入しろよ」とか、どうしても言えない自分がいる。もちろんアーティスト側のマンネリ解消と言う部分はあるだろう。だけれど私たちがそれを煽ってはいないかと心配になる。
音楽は既知のものをやるのが一番楽しい。お笑いとは少し性質が違う。そこになんとか新鮮さを盛り込んでくれと要求は自分にはできない。一度披露したものを何度も何度もブラッシュアップしながら披露していくことができる。だったらそれでいいんじゃないか。そこに全力を注いでくれることだけでもう十分私は幸せである。私はRADWIMPSくらいしか何度も同じアーティストのライブを見に行かないので、他のアーティストがどうマンネリを解消しているのかは知らないが、彼は本編ではしっかりと定番曲を演奏し、近年は野田一人でアンコールの際にピアノでリクエストを募る、という企画を行っている。ただその時に無理難題が来たら彼のキャラなりに「ムズイよ(笑)」と流してリクエスト候補を絞っている。無理なくコミュニケーションをとりながら折衷案を探している。その緩さは観ているこちらもリラックスできる。
知っている曲しかノらない若者、みたいな問題提起のされ方もあるが、再現度の美というものも見直していかないとなと、自分に戒めてみる。