2020年の顔、YOASOBI
去年の今頃、YOASOBIと言って誰が分かってくれただろうか。ボカロ界隈、と括られていたこのジャンルのアーティストは、もれなく私も軽視していた人間の一人だった。むしろなんだったらずっと真夜中でいいのに。の方が先に国民的知名度を得ると思っていた(勝ち負けの話ではない)。春先を迎えたあたりから明らかに反応が変わり、「夜に駆ける」が独り歩きし始めた。それは大ヒットの予兆だった。夏ごろになるともはやその辺のおじさんでも名前くらいは認知するようになり、若者にすり寄るための第一声が「今って、ヨアソ….ビ…だっけ!?流行ってるの!!」とわざとらしく迷ったふりをして繰り返す。そのくせカラオケでは冒頭から歌えるはずでもなく、ラストの1音上げで爆死する。照れ笑いを浮かべ「いやあ、歌えないわ(笑)」と頼んでもいないのに勝手に歌って勝手にギブアップする地獄絵図…は幸い(?)コロナのおかげで見かけることも少なかったはずだ。かつて10年前にGreeeenで起きた惨劇が繰り返されずに済んだのは、不幸中の幸いだったと言える。
ネットミュージックという文脈
”がわ”の話はほどほどにして、中身に移る。私自身この手の(というと聞こえは悪いが)アーティストはからっきしで、どんな文脈で登場し、どの歴史から紡がれてきた音楽なのかも理解に乏しい。昔一度インターネット音楽史のようなものは読んだが、やはり記憶にとどめるのは困難で、でもたしかに初音ミクの生誕と隆盛はかじった覚えがある。yoasobiの作曲担当であるAyaseは初音ミクに自身の楽曲を歌わせ、そこで着実に地位を確立しつつあったニューカマーアーティストだった。
Ayase:僕はボカロPとしても活動していて、去年の4月末、平成最後の日に「ラストリゾート」っていう曲をアップしたんですけど、その曲をたまたまスタッフさんが聴いてくださったみたいで。それでお声がけをいただきました。
――ボカロ作品がきっかけだったんですね。ボーカリストの選出については何か基準などを設けていたのですか?
Ayase:最初は僕の声の好みいうか、実際に活動されているアーティストさんを引き合いに出したりして、こういう声だったら面白いんじゃないかっていう話はしていたんですけど、最終的にはそういうのを度外視して選びましたね。
――直観というか。
Ayase:そうです。
<インタビュー>YOASOBIが語るユニット結成の経緯、音楽と小説を行き来する面白さ
そう考えると、令和から活動を始めたアーティストで最初にヒットしたアーティストということになるのではないだろうか(まあそんなこといえば瑛人もそうだが)。時代の進み方に驚くばかりだ。
YOASOBIの楽曲を聴くたびに思うのが、模範的ネットミュージックの産物だなということだ。これはそのジャンルに疎い私の浅はかな感想でもあるが、疎いからこそ言える率直な感想でもある。具体的なリズムやメロディに様式美があるわけではないが、イントロから一音一音がはっきりと鳴り、その高低差も大きく自ジェットコースターに乗っているかのような気分になる。それが高揚感をもたらし、サビまでの持続力につながる。いつだって聴くのを辞められてしまうネットミュージックだからこその工夫なのだが、それがいつしか求められるパターンへと昇格した。その中毒性は過激だが効果的で、いまなお多くのネットミュージックあがりのアーティストはこのイントロの手法を重用する。
とはいえAyaseは、決してそういったジャンルにのみ強く感化されていたわけではない。彼はルーツについてこう語っている。
――そもそもお二人にはどんな音楽ルーツがあるのでしょうか?
Ayase:僕は小学生の頃、aikoさんだったりスキマスイッチさん、あとはコブクロさんとかEXILEさんみたいな、J-POPの第一線にいるアーティストさんを聴いて育ちましたね。そこからの影響が大きいので、ボカロの曲を作る時もボーカロイドのソフトを使ってJ-POPを作っているような気持ちです。
同上
また、バンド経験もあり、Crossfaithやマキシマムザホルモンといったバンドからの影響も口にしており、意外にもジャパニーズロックへの傾倒は大きいようだ。決して今の活動にそのまま投影されているわけではないが、曲作りのうえでアイデアの一つになることはあるのかもしれない。
一方ikuraは
ikura:私は3歳までアメリカに住んでいたこともあって、幼少期から洋楽を聴いて育ちました。小学校の頃はディズニーチャンネルで色んな作品を見て、そのサウンドトラックを買って英語で完コピしたり。その頃の影響が今の自分の歌い回しにも出てるのかなって思います。
――なるほど。日本の音楽だといかがでしょう?
ikura:特定のアーティストさんがいるわけではないんですけど、父がフォーク・ソング好きで、ギターもそれがきっかけで教えてもらうようになりました。小学校から中学校ぐらいまではフォークとかカントリーをよく聴いていたので、ああいうシンプルな歌っていうのはルーツとしてあると思います。
同上
と語っている。どの媒体でも同じような内容なので、ディズニーチャンネルの存在はゆるぎないものなのだろう。
”しない”を選ぶマツコ・デラックス
コロナ禍において、大きくテレビも変わってしまった。海外ロケが当たり前だった「世界の果てまで行ってQ」や「世界ふしぎ発見」は国内ロケが多数を占め、密を生み出す番組は距離ととられるようになった。マツコ・デラックスの番組も例外ではなかった。
タレントのマツコ・デラックスが出演するテレビ朝日系バラエティ番組『夜の巷を徘徊する』(毎週木曜24:15~ ※一部地域除く)が、1日の放送から『夜の巷を徘徊しない』に番組名を変更した。
『夜の巷を徘徊しない』に番組名変更 マツコ「しょうがないわよね」
その名の通り、マツコが夜の巷を徘徊して街の人たちと交流してきた同番組。しかし、現在は新型コロナウイルスの影響で外ロケを中止し、スタジオ企画を行っているため、10月の改編期のタイミングで番組名を変更することになった。これを聞かされたマツコは「しょうがないわよね。今もうウソついてるから」と感想をコメント。また、新タイトルを『―徘徊しない』としたことに、「ここも重要で、ついつい今のテレ朝さんだと『―徘徊できない』とかにしがちじゃない。全部人のせいよあんたたちは。じゃなくて、こういう状況下であっても“しない”っていうのを自ら選択してるんだという、そこの差なんですよ」と強調した。
「こういう状況下であっても“しない”っていうのを自ら選択してるんだという、そこの差なんですよ」
この言葉がやけに響く。その通りだなと深く頷く。普通に会議して普通に決めたらおそらく誰だって「徘徊できない」にするはずだ。事実自分たちの選択ではなく、そうさせられているのだから。でもだからこそその言葉選びは慎重にとマツコは警鐘を鳴らしている。たったタイトル一つでも、その意思は明白だ。できないのではない、しないのだ。自ら選択したものに責任と自覚を持つことがこの時代に求められている。
確かに今は、ぼんやりとしたものが広まりづらい時代なのかもしれない。多くのミュージシャンは歌を作るときに、聴き手の想像力をかき立たせられる「余白」をもたせようとするものだが、YOASOBIの場合は、各曲に明確なストーリーが小説・ミュージックビデオ・映画で提示されている。
「(曲の元になる作品を)理解していないと当然アウトプットはできないので、理解しやすくしたり、説明しやすくさせたりしているのは、もしかしたらあるかもしれないですね。余白を作るという意識も一応あるんですけど、わかりやすい言葉や日常的な言葉を曲に入れることは、すごく意識してます。聴く人が曲のストーリーとまったく同じ状況にいることはほぼないと思うので、そこを意識して余白を残しすぎると、『なんかわかるわ~』っていうところで止まっちゃうと思うんですよね」
【独自】「夜に駆ける」大ヒットの要因──YOASOBIの2人が語った、サブスク時代のアーティスト像
「サブスクやYouTubeで音楽を聴くことが主流になっている中で、CDが欲しいと思うことはそのアーティスト自体がすごく好きだとか、生活のコレクションに加えたいと感じたときだと思うんです。特に今の若い子にとってはCDが身近なものではなくなってるからこそ、手に入れたいと思ってもらえる形にまで仕上げないといけないと、そこはすごく意識してました」(Ayase)
現状、まだCDを出していないからといって、彼らがマネタイズできていないわけではない。YOASOBIを取り巻く音楽産業のビジネスモデルについて、Ayase氏は「恐ろしく危惧する必要はない」と語っていた。
同上
この時代においても、CD不況だからCDが出せない、お金が稼げない、ではなく、それでもCDが好きだから売りたい、危惧はしていない、と明言する。その選択は明らかに意識的だ。
とはいえ、決してこの異常事態の中で「できないことじゃなくて、できることを見つけよう!人のせいにせず自分の価値を高めていこう」といった意識だけ高い自己責任論者に成り下がるつもりはない。どうやっても生きていくことが不可能な業界の人々はごまんといる。きちんとそこは政府の補助を求め、必要に応じて受け取るという選択をすればいい。そこは大きく異なるのできちんと明言しておきたい。
自らをビッグマウスと語るAyaseも、その真意は自分を追い込むためである。そして自然と味方を増やしていく。なにをするかしないかが明確だから応援もしやすい。この人なら信頼できるな、という確信がついてくる。
この世界で何ができるのか/僕には何ができるのか/ただその真っ黒な目から/涙溢れ落ちないように(怪物)
どれだけ巧みな文章を書こうが、コンセプトが奇抜であろうが、選択をできるアーティストって強いよなってつくづく思う。