邦ロックバンドで、ここ5年最も多くのキッズの心に響く歌詞を書いているのはSUPER BEAVERであるといっても過言ではないと思う。それくらいに彼らの一語一句は大きな影響をもたらしている。
彼らの経歴はファンなら当然知っているだろうし、むしろそのキャリアを知っているからよりファンになったといってもいいくらいに彼らの歩みと音楽は密接につながっていて、今や彼らの説得力になっている。
一度デビューしたにもかかわらず2年で退所、その後自主レーベルで地道に活動を行ってきたバンドだ。2010年代前半は縦ノリ全盛期で、フェスでの勝ち上がりが音楽界の縮図にもなっていた。どうしても彼らの音楽性はその争いには不利だった。
だから彼らの歌詞はいつだって”気づき”のうたになっている。今新しい価値を提供しよう、だれも知らない素晴らしいことを与えようという視点ではなく、「僕たちはこんなことに気づいたんだ」という姿勢が基本的に多い。それは代表曲「人として」や「美しい日」、「ありがとう」にも顕著に表れている。
柳沢:まさにこの曲はライヴができない時期があり、またライヴをやれたことで再確認できた感情ですね。ステージ上で「何があっても 何がなくても」とぶーやん(渋谷)が言ったんですけど、それが「スペシャル」を書く取っ掛かりになりましたね。何があろうと何がなくても、最初からずっと大切なものは、何かがあったから突然大切になったわけじゃなく、最初からずっと大切なものなんだよなと。それをSUPER BEAVERとして歌にすることが大事なんじゃないかと。それで「スペシャル」ができたんですよ。
SUPER BEAVERの現在地。聴き手の心情や生活に寄り添った作品が並ぶ新作『東京』。その核心とは?
初期のころの楽曲と比べると、彼らのテーマは恋愛感情や親子の愛から博愛的な、全対象の愛へと拡大解釈されている。
だけど今の俺に/へその緒はないから/愛を探さないと/栄養不足、退化するんだ
へその緒
あなたが愛するすべてを愛する/あなただけが僕の全てと言えない理由がうれしいよ
愛する
ーー「東京流星群」も長年やってきたことで、ライブでの響き方が全然変わりましたよね。以前の「東京流星群」はもっと儚くて、切なかったと思うんですけど、今は力強いものになっている。
渋谷:歌っていても全然違いますね。何本も何本も「東京流星群」をオンステージでやってきたことによって、楽曲の一人称が大勢になっているなってかなり感じています。〈僕の宝〉という言葉も“僕ら”になっている気がするし、一人称が一人称じゃなくなってきている感じを、ことさら2021年に強く覚えたので。そういうふうに変化してきた「東京流星群」があったその先で、この「東京」という曲とアルバムがあるっていうのは、すごくいいストーリーだなって思いますね。
SUPER BEAVER、音楽を通して肯定するそれぞれの人生 再びステージに立つ中で感じた、かけがえのない人間冥利
自らを「ジャパニーズポップミュージック」と名乗るSUPER BEAVERは、その名の通り、かなりアグレッシブにポップスに接近する。彼らはいかに言葉を伝えるか、再デビューまでのいきさつでの「発見」をいかに盛り込み、そこに共感させるかを命題として掲げている。その結果、彼らは一つの音符に一つのシラブルを乗せている。そのため疾走感や言葉遊びといった側面はなくなってしまうが、力強さや説得力、あとは聞きながら意味がしっかりと理解できるという点を獲得した。
たとえばゆずの「栄光の架橋」とか、森山直太朗の「さくら」とか、普遍なポップミュージックにはそういったシラブルの意図的な操作がある。グルーヴ性が日本の音楽には少ないと言われるゆえんはおそらくここだろう。
どうしても歌詞が前面に出るとその暑苦しさと、押しつけがましさは浮き彫りになる。そしてなにか説得されているような気分にもなるので、そこをどううまくさけるのか、あるいはそういった意見はスルーしてあくまで自己を貫くかはそれぞれのバンドによって判断は分かれるだろう。
ちなみにボーカルの渋谷はMOROHAのアフロと仲が良いことも言葉を重んじる二人という点でシンパシー等があるのかななんて邪推もある。
すごく仲の良いラップグループ「MOROHA」のアフロがよく行っている靴屋さんで。お店の方が僕のことを知っているから一緒に行こうと誘ってくれたのがキッカケで行ったら、めちゃくちゃカッコいい靴がいっぱいあって、その中で気に入ったのがこの靴でした。ずっと履いていますね。
渋谷龍太(SUPER BEAVER)にとっての至福のオフ 〜オフに聴く音楽と、ファッション&休みの過ごし方
余談だが、当ブログはいまだにMOROHAの記事についてぐちぐち言われたりもするが、決してSUPER BEAVERも同じ穴に入れてやろうというつもりはない、多分。
個人的にはMOROHAもSUPER BEAVERも、そういった”圧”は受け入れながらも自分を曲げることなく活動してファンダムを獲得しているバンドだと思う。そういった意味では共通点はあるのかもしれない。
ここ10年くらいの邦ロック界は「歌詞」を少し置き去りにしてきた面はあると思う。でもそこでその看板を背負い続けたのが彼らであり、日本語のリズムを解体し再構築する動きがバンドの中で多い中で、彼らは意地でもシラブルを丁寧に載せていく。そうしてもっともらしく、説得力を高め、普遍性が高く具体的な描写が少なくても若い人たちを「そうだよね」と理解させることに専念する。なかなかタフなバンドだなといつも思いながら観ている。