こじらせた人間の歌

緑黄色社会のニューアルバム「pink blue」のリードトラック「ピンクブルー」という楽曲がある。この曲は、全編通して非常にネットカルチャーに親近感のあるマインドですごく陰湿にも映る歌で、それを緑黄色社会というバンドが歌い上げていることに非常に興奮する。そういう歌って歌うんだという驚きとともに。

歌詞とともに一度すべてを聴いていただこう。

ピンクブルー 歌詞 https://www.uta-net.com/song/337289/

向き合えない弱さは他者の存在と必要とする

MVの冒頭では電話が通じず唖然とするボーカル長屋の姿が映る。そのあとに入る歌詞「一歩も外に出なかった/自慢じゃないけど」は、友達を遊びに誘おうとしたもののだれも電話にでてくれず、一日中やることなく家に閉じこもっていた主人公の気持ちなのだろうと考えれば、この「自慢じゃないけど」は完全なる強がりだ。ほんとうに自慢じゃないけれど、自慢げに映るならそれでもいいやという欲すら見える。続けて主人公はテレビを見ているとニュースキャスターが原稿を噛んだことに「ドンマイ」と嘲笑する。

さらに自分が暇なのをかこつけて「世の中はみんな大変そうだしあくびでもしようかな」とか言い出す。相当ひねくれているし、こじらせている。ツイッターでクソリプ送っては「低学歴の引きこもりのくせに笑」みたいな文面も送り付けているかもしれない。

MVはその後暗くなると長屋は宙に浮く。ここからは主人公の内面に潜る。「でもちょっとだけ寂しい気がする」と本当は自覚する虚しさや寂しさに言及している。でもここでも何度でもちょっとだけ、とエクスキューズをつける。自分の本当の気持ちややっていることの虚しさにすらちゃんと向き合えない。

ようするに常に主人公は他者の目を意識している。自意識が高まりすぎて、常に誰かから見られている自分を正当化しようとしている。それはサビ以降にも顕著に表れる。

ブルーなんてほどじゃない/大袈裟だからピンクなんか混ぜて/うざったくないようにして

気持ちがブルーであることをかたくなに受け止めない。ブルーだなんて言っちゃうとメンヘラだとかめんどくさいやつだとか思われるからかもしれない。大袈裟だとしうざったくないようにしたがる。うざがられる恐怖があるのだ。ブルーだと言ってしまうことに対して。

来るはずのないお誘いは冒頭の電話をかけても誰も出ない事とつながっていて、外は危ないし夜は冷え込むから家にいとくわ。と積極的引きこもりを自らの手で選んだことにする。解釈をゆがめていく。それくらいのブルーと言われても、もうぜんぜんピンクブルーに見えない。

ちなみに全編グリーンバック(この場合はブルーバック)にしておそらく本来であればCGが当てはめられているはずの本MVはなぜかすべてむき出しのままだ。サビではサメが周りにいて船で大海に旅立っているようなシーンが映る。CGは主人公が他者に見せたい姿、映像は実像という意味なのか。

刺激に慣れた若者

穴見 僕的には、今の時代にフィットするワードなんじゃないかと思って、「pink blue」をタイトルに押しました。大げさなことに醒めるのが今の若者なのかなと思うんです。例えば今はショート動画が流行っているじゃないですか。最初の10秒くらいで「なんだ、これは?」と思えないと、もう見る気を失くしちゃう。それが今の若者たちの感覚なのかなと思うんですけど、そう考えると「pink blue」くらいの軽やかな感じって、けっこう今っぽいのかなと思う。「ピンクブルー」の歌詞の世界観もそういうものだと思うし、届く人には届いてくれるんじゃないかなと。

ニューアルバム「pink blue」で起こす革命 – 緑黄色社会

大袈裟なことに醒める若者、言い換えれば大きな刺激に慣れ切ったというべきか。2番では映画の名シーンをパロディしていく。ターミネーター、天使にラブソングを、トロン(間違っていたらごめんなさい)。見られたい自分はそれくらいに果敢でエンターテイナーで刺激的な自分なのか、それとも単なる妄想か、いずれにせよ一歩もまだ外に出ていない。大きな刺激になれきって次から次へと消費していき、いつのまにアテンションエコノミーの波に飲まれている。その反面、自分よりつらい人もたくさん簡単に見つけることができる。相対化し「自分はこれくらい」と見積もる。ピンクブルーくらいだと。

昨日を思い出せないの 写真もないし/オートセーブ慣れちゃってどんまい

この主人公が他者の目を意識して生きてことはわかったが、さらに自分ではなにも記録に残していない虚無にすら気づく。このどんまいは自分にいっている。一番ではキャスターに向けられたものがブーメランとして刺さる。言いようがないほどどんまいな人間だ。

そして一番最後に「どこかに連れ出して」とささやく。それを最初から言えばいいのに、と思う。なかなか素直にそう言い出せないのが若者なのだ、という含蓄はわりと自分にも突き刺さる。

ピンクブルーと見積もる若者、退屈できない若者

自分のブルーをうざったくないようにと他者の存在を前提として薄めてしまうのは、SNSの発展が大きく起因しているだろう。そして主人公は一転して退屈だとは言わない。自分は誰にも誘われないことも電話に出てくれないことも「どうせ世紀末だし」などといってごまかす。退屈させてくれない。そこに刺激のあるSNSがある限りは自分を満たすことができる。退屈の反対は楽しいではない、興奮するだ。それはつらいことでも楽しいことでも驚くことでもなんでもよい。競馬に興じるのは金儲けではなくギャンブルというスリルを味わうためで、ショッキングな映像に反響が大きくつくのは興奮するからだ。興奮する出来事があると、昨日と今日の区別がつく。昨日とはちがう今日だったと言い切ることができる。バートランド・ラッセルは「幸福論」の中で「動物は、健康で、食べるものが十分にあるかぎり幸福である。人間も当然そうだと思われるのだが、現代世界ではそうではない。」と語っている。衣食住満たされているのに満たされない。幸福と感じない。ぼんやりとした不幸の空気が漂っている。主人公は少なくとも刺激がなく退屈している。「どこかへ連れ出して」「ちょっとだけうらやましい」と他者の存在を前提として自分の幸不幸を量っている。緑黄色社会のこの「ピンクブルー」は非常にライトでキャッチーでかつエイティーズのポップスにも通ずるようなデジタルサウンドに仕上げているが、この歌詞を聴くなんとなくどんよりするのだ。もちろん、リョクシャカ史上最も好きな曲の一曲になったことは付け加えておく。

※参考文献「暇と退屈の倫理学」著:國分功一郎