Official髭男dismのMV

Official髭男dismのChessboardという曲がある。第90回NHK全国学校音楽コンクール中学校の部課題曲に指定されており、合唱用という枠にとらわれないヒゲダンらしいメロディの運びにロングトーンありで合唱映えも用意されている。

チェスボードみたいなこの世界へ僕らは
ルールもないままに生まれてきた

綿毛みたいに風に任せ 飛べた頃を羨むけど
空中からじゃ見落とすような小さな1マス
そこであなたに会えたんだ

そしてチェスボードみたいなこの世界でいつか
あなたの事を見失う日が来ても
果てないこの盤上でまた出会えるかな?

Official髭男dism – Chessboard

中学の合唱コンクールの課題曲ということもあり、人生をテーマにした歌で、その歌詞は思慮深く、普遍性が高く、そして表現豊かだ。人生をチェスの盤でたとえ、前進ばかりでない人生を描く。このミュージックビデオがこちら。

歌詞の世界をしっかりとビジュアル化しているので、多くの中学生にもしっかりと歌詞の意味が届くに違いない。監督は新保拓人。ヒゲダンを含む数多くのアーティストのMVを手掛ける名監督だ。

老夫婦、若いカップル、そして子供たち。様々な世代を映し、人生そのものを表現している。ただ、そこは必ず男女のカップルだった。

この話題は文字だけで指摘するのが非常に難しく、色々弁明補足しながら進めないといけないのでまどろっこしい文章になってしまうことはご容赦いただきたい。

このコンセプトのMVをもし海外(とくにアメリカ)のヒゲダンレベルで認知されている国民的ポップミュージシャンが描くとき、おそらくゲイカップルも描かれていただろうと想像する。男女の恋物語ではなく、”人生”を描くのに、老夫婦も若いカップルも子どもたちも、必ず男性と女性の1対1の構造になっているのは、ヒゲダンクラスの思慮深いニュータイプのアーティストなのにもったいないなあと思わなくもない。

じゃあすべての作品にLGBTの表現を入れなければならないのか、と言われればもちろんそうではないが、普通ってこうでしょっていう消極的で無自覚な排除には気を付けることに越したことはないと思う。そして今の時代の表現物として、それを考慮に入れたか入れなかったかというところはある意味で重要だとも思っている。ダメってわけじゃないし、これで彼らを糾弾したいわけでもない。新保監督がそういうことに無頓着な人だとも思わない。これは邪推だが、もしかしたらNHKの合唱コンクールという制約が保守的な人たちによる「中学生に男女のカップル以外を見せる必要はあるのか」という指摘があったのかもしれない(ないとは思うが、そういうことを言う人たちは残念ながら存在する)。中学生にはまず”普通の”性愛を見せるのが教育上大切だ、なんて差別発言を悪びれもせず発言する議員もいたりするのだから、そういう邪推がどうしても鼻で笑うことができないのが現実だ。

ヒゲダンは非常にセンシティブで包括的な歌詞を書くことに長けているので、わりと普段から誰も取りこぼすことのない歌詞を書いていると思っている。だからこそなおさらこのMVがあまりにステレオタイプな人生模様を描いていることにひっかかるのだ。もっと言えば、一人で生きていくことも人生だというならかならず二人で一つみたいな描き方だけでなく、一人の人生もあってもよかったのではという見方もできる(そこまでいろんなパターンを描くとMVという短い作品の中で情報過多になり雑多な作品になりかねないリスクは当然ながらある)。

星野源の包括性

私は星野源が大好きなのだが、その一つの理由として彼に対する全幅の信頼があるからだ。彼が表現する歌詞や発言、MVも含め、なにひとつもやっとする部分が見当たらない。むしろいつもいろんなことに気づかせてくれる。”Family Song”を歌ったって、いろんな形のFamilyがあると明言してくれるし、逃げ恥で一大ムーブメントになった”恋”は夫婦を超えていけ、一人を超えていけと歌う。

コロナが流行した時に「うちでおどろう」をリリースした時にも、「うち」は「家」を表現せずひらがなで表した。それは家がない人や家に帰れない人も、それぞれのhomeでおどろうというメッセージが込められていた。

星野:「恋」のときもそうだったんですけど、家族やファミリーってめちゃくちゃポピュラーな言葉じゃないですか。ちょっと普遍的すぎるというか。それをなんとなくの印象ではなく、この機会にちゃんと考えてみたくて。そんななかで、「恋」のときに題材にした恋愛と同じように、家族というものもどんどんかたちが変わってきていると思ったんです。恋愛のかたちが変わっていくのにしたがって、必然的に家族のかたちも変わってきてるんですよね。これからは両親が同性の家族も増えてくるだろうし、そういう多様化のなかでちゃんとそれを受け止める器の大きい「これからの歌」をまたつくりたいと。もう血のつながりとか一緒に暮らしているかどうかとか、そもそも人間かどうかっていうのも関係ないんじゃないかって。そういうことを考えながら「なにが家族なんだろう?」って思ったとき、相手のことを何の見返りもなく心から無事であるように願えるとか、少しでも幸せであるようにと思えるとか、そういう関係を家族というのだろうと思って歌詞を書きました。

星野源、「Family Song」で向き合った新たな家族観「“これからの歌”をまたつくりたいと思った」

初期のころから”ばらばら”で「世界は一つじゃない」と歌い始め、Superorganismとコラボし

It doesn’t matter to me whether it’s all rain or full of sunshine(雨だろうが晴れだろうが関係ない)
You piss me off, I love you a lot君は僕を怒らせるし、僕は君を愛している)
To me, they both mean the same(僕にとっては、どちらも同じ意味なんだ)

星野源 – Same Thing (feat. Superorganism)

と”Same Thing”で歌うのも、”Ain’t Nobody Know”で同性カップルを描くことも、すべて一貫していてすべてを見渡している。ある種の達観と愛があり、一方で無理強いするものがない。強引に二元論でまとめたり、「性別とか関係ない、人類みんな同じですよ。愛がすべてを解決しますよ」みたいな博愛主義気取りで分かった気にもさせない。私たちは違うし憎しみも愛も表裏一体だしみんなわからないんだ、だから歩み寄ってちゃんと考えていかなければならい、という意思を強く感じられる。

ジャニーズの東山紀之がチョコレートドーナツという作品の舞台の主演を務める際のインタビューで言っていたことを思い出す。

1970年代のニューヨークを舞台に、ゲイの男性が育児放棄された障害を持つ子どもを育てたという実話に着想を得て製作された『チョコレートドーナツ』(2012年/原題『Any Day Now』)を、2020年、東山紀之主演・宮本亞門演出で世界で初めて舞台化。高い評価を得ながらも、残念ながらコロナ禍で上演数が減ってしまった本作が、2023年、満を持して再演を果たす。主人公ルディには続投となる東山紀之、ルディのパートナーであるポールとして新しく参加する岡本圭人に話を聞いた。

――本作のどういうところにグッと来ましたか?

東山 結局、人間同士がどんな想いで生きていくかということなんですよね。ゲイとかドラァグクイーンとか、表面的な要素はありますが、本質的なところでは人間同士が愛し合う、普遍的なテーマをダイナミックな表現で描いています。

舞台『チョコレートドーナツ』再演に向けて 東山紀之×岡本圭人「さらに研ぎ澄まされたものをお届けしたい」

チョコレートドーナツを見たことがある人なら、この発言がいかにこの映画の本質を甘く見ているかがわかるだろう。ゲイだったから裁判にも負け、ゲイだったから差別され、ゲイだったからダウン症の子どもを預かることができず手放さざるを得なかった。それは全て当時同性愛が犯罪だった社会システムの問題であり、それを描いた作品を「表面的な要素」とし、「でも本質は男女関係なく人間同士の愛ですよね」と上っ面のいいことだけをいう。私は男女とかそういうのでみていない、人間の本質について理解がありますよ、というスタンスは当事者の理解を最も遠ざける醜悪な態度だ。

話を星野源にもどすと、NHKでやっている「おげんさん」での男女を入れ替えて演じるところ(高畑充希が父、星野源が母)も、「星野源のおんがくこうろん」でも女性の林田アナウンサーをサポート役として据えるのではなく、星野源と二人で進行する構成にすることも(マンスプレイニングを避けている)、すべてが意図的だし確信犯的だ。だから、無自覚にいたずらに誰かを排除したり傷つけたりしない。だからといって星野源の作品が制限されていたり配慮しすぎてつまらなくなっているのかというと全くそうではない。彼自身で「ポリコレによってつまらなくなった」という難癖は単純に受け手の貧相な感性によるものだと証明できる。表現の幅はむしろひろがり、あらゆる視点から描く自由がある。だから私は星野源にいつも励まされ、いつもほろっと涙してしまう。それは彼の温かさのせいかもしれない。

彼の現時点での最新曲「生命体」は世界陸上・アジア大会TBS系テーマ曲だ。もちろんアスリートは勝ち負けの世界だし、そこで自分らしくでいいよなんてメッセージはそぐわない。どうしても少しマチズモで資本主義的な勝負至上主義が垣間見えてしまうのが普通だ。なのに星野源は、「走れ」「行け」と力強く押しているが「選ぶのは生き様と地平」とあくまで自分との闘いであることにフォーカスする。どうしても勝負して勝ち負けの中で生きなければならないこの世界において、星野源は投げ出しもしないし強制参加もさせない。

「1”を超えた先」っていう歌詞なんですけど。(中略)アスリートの方ってやっぱり当たり前だけど1位を死にものぐるいで目指してるじゃないですか。だから、たとえば1個あるとしたら「1を取る」とか「1になる」っていう歌を作るっていうこともひとつ、道としてはあると思うんですけど。でもそうなると1位になれる方って本当に本当に一握りの人でしかなくて。それ以外の人たちを無にしてしまうのか?って思うと、そういう歌は作れないなと思うんです。

で、そういう人たちも含めて、なんていうか、鼓舞されるような。そういった人たちも含めた曲を作るにはどうしたらいいかな?って思った時に、全員に共通してるのは「最高の自分でいることだ」と思ったんですよ。で、一番何がいいか?っていうのは能力も心も全てが自分の一番最高の状態でその場所にいられて、プレーできること。ゲームできることっていうのが一番だろうなと思ったんですよ。なので「”1”を超える」っていう言葉にすれば、今いる1を超える1位を目指す人の歌にもなるし、「”1”を超える」という歌詞にすれば、僕にとってその1を超えるっていうのは「エゴがなくなる」っていう意味なんですよ。「1」っていうのは孤独の「孤」で、自分っていうものを考えて……「エゴ」のことですね。だから「自意識」のことですね。1というのは。

で、その自意識っていうものに日頃、人間はずっと悩まされてて。「あの人と比べて私は……」とか、「自分はこうだから」っていう思いとか、「社会がこうで、自分はこうで、その違いに悩んでいて」とか。「自分にはこういう責任があって、こうしなきゃ」とか、いろんな問題がある中で、その自意識がなくなった瞬間、それは僕がよく言う「アメーバになる瞬間」っていうことなんですけども。それは自分の能力が一番発揮できる時。自分の中が空になる時だなと思うんですよ。で、その状態を目指すこと。その状態を賛美すること。それを歌いたいなと思いました。

星野源『生命体』楽曲制作と歌詞に込めた思いを語る

いつだって星野源が安定している

ここで言いたいのは星野源がいい、ヒゲダンがだめ、という単純な話でも、ましてやLGBTを表現してくれるからいい、しないからダメというしょうもない話ではない。

あくまで話のとっかかりとしてヒゲダンを挙げさせてもらったが、特に日本のポップミュージックにおいてはまだまだステレオタイプな表現が大多数を占めていることが多い。今年のグラミーではLIZZOが獲得し、キムペトラスがサムスミスと共に初のトランスジェンダー女性での受賞が話題になった。もはや例に挙げるのが野暮なくらいにフェミニズムにしろLGBTQ+にしろ、そういう表現を行い声高に権利を主張し地位向上のために動くアーティストは多数いる。男女の恋愛はひとつの表現として当然存在するのと同じように同性カップルの恋愛もまた当然のように存在する。それを取り入れるとか認めるとかそういうことではない。ただそこにいて当たり前のように生活しているだけで、それを描くことがネガティブな意味合いを持つはずがない。

やっぱり星野源は最高なんですよ。星野源こそが希望だし、癒しだし、パワーだし、学びだし、だれにでも胸を張って誇れるアーティストだなっていつも思っている。