2022年8月21日。Summer Sonic2日目の大阪公演で精魂尽き果てたThe1975のライブで、ボーカルMattyは「4月に帰ってくるよ」と宣言した。その言葉を聞いてから8ヶ月。彼らは、確かに日本に帰ってきた。東京、横浜、名古屋、大阪。アリーナクラスの会場を軒並みソールドアウトさせ、テン年代デビューのバンドとしては異常の熱狂ぶりを見せるThe1975。大阪公演は、そのツアーの中でも千秋楽を飾る大事なライブだった。

14時からの物販に、生まれて初めて2時間前から並ぶ。グッズの一つ一つがとても丁寧でオシャレで、そこに抜け目がないところが、このバンドの特異性でもある。ダサくなりがちなバンドTシャツを見事にアートへと昇華させている。

18時ライブ開始に合わせて会場に入り、胸を躍らせる。この始まるまでの時間はいやに静かで落ち着いている。心がすーっと透き通り、ワクワクは鎮火する。思い思いの16000人が指定された席へと向かう。自然とスマホで時間を確認する回数が増える。少しずつahamoは回線速度を落とし始め、17:55ころにはほとんど使い物にならなかった。そうだ、スマホなんて持たなくていい。鎮火したはずの炎が少しずつ大きくなることを自覚しているから、なんとか誤魔化そうとスマホを見ている自分に気づく。ステージへ目をやると、中央にはライトとソファとテーブル。その下にはマットが敷かれ、簡易的なリビングのようなセットができている。それ以外はいたってシンプルな、バンド本来の姿をあらわにしてくれる白いステージがあるのみだった。

18時になっても始まらないライブに痺れを切らしたオーディエンスはばらばらと立ち上がり名前を呼ぶ。時に拍手し、時に雄叫びを上げる。じわりじわりと始まりが近づいていることを感じとるこの感覚はライブならではだ。SEが消えるたびに暗転することを願う。何からくる。誰が出てくる。そのワクワクは、到底代用できるものではないかけがえのない時間だ。

暗転。歓声。スポットライト。歩いて一人登場。真っ暗なステージに一人Mattyが登壇し中央のソファに腰掛ける。目の前のレコードが置かれ、Mattyはおもむろに針を落とす。バリバリっと音を鳴らして音楽が流れ始める。いよいよメンバーが登場する。ウィスキー(あるいはワイン)が入った瓶酒を一口含ませ、オープニングナンバー「Looking For Somebody To Love」が始まる。

安定した演奏陣、サポートメンバーとの完璧なコラボレーション、そしてMattyの落ち着き払った安心できる歌唱。いつぞやの酩酊状態のライブではなく、完全なるエンターテインメントショーとして成立する美しさ。この耽美なライブを全身丸ごと受け止めなおその零れ落ちる雫を必死に目で追いかけている。唸り迫る疾風のようなサウンドとそれに呼応するオーディエンス。いつだってこのライブを私は求めていた。実に8か月。個人的に初めての彼らの単独ライブは、フェスとはまた異なった堪能とどっしりと腰を据えたおおらかさを実感する。

途中、「Guys」の弾き語りが入る。ワンコーラスだけだが「the first time we went to Japan was the best thing that ever happened」の部分に大きな拍手と喝采が起きていた。

私は許すも許さないもないが、いけないことかそうでないかの基準はあると思っている。いけないことだと、良くないことだと、そこの共通認識を持つことは大切だけれど、許す人をこき下ろしたり許さない人を指さしたり、それに意味はあまりない。単純にあの歓声は許したからでもなければ、無知だからでも盲目的だからでもなく、今あの時のあの言葉にシンプルに呼応しただけなのだと思う。それはどれだけなにがあろうとも変わらずあってほしいことだし優しさや甘さにかまけていていいのだと信じている。

新旧交えた楽曲構成は、初期楽曲の良さを再認識させ、近年の楽曲のクオリティの高さに舌を巻く。高いIQでリファレンスを明確に提示しながらオリジナリティを積み重ねていく。例えば「Robbers」と「About you」、例えば「chocolate」と「I’m In Love With You」。時代遅れと言われながらロック不遇時代をサバイブし、時代を味方につけ今最もホットでクールなバンドに成長し、ときに騒ぎを起こし、からかい、挑発し、反省し、ドラックに浸り、バンドメンバーに救われ、キスし、ハグし、愛をばらまいて、それを疑われて、またこじらせて、憤り、慈しむ。彼らはずっとそうやってきた。その過程を、この場でひとつずつ紐解きながら見せられている気がする。だから一曲ずつがシンプルに構成され、丁寧に、丁寧に歌われていく。大げさなアクションもない。本家UKで魅せたようなセットやパフォーマンスもない、それは単にそのステージングを持ってこれなかったという意味だけではなく、まず日本に見せたい彼らの姿の最短距離だったのではないのかと考えた。

花田清輝という人が「楕円幻想」という文章を残している。矛盾していてかつ美しいと彼はとらえているが、私たちは矛盾を恐れすぎているのではないだろうか。人に対しても、自分に対しても。The 1975には「I Always Wanna Die (Sometimes) 」という楽曲がある。Always(いつも)といいながらカッコつきでSometimes(ときどき)と対極にある言葉で矛盾する。これを聴いたときBUMP OF CHICKENの「才脳人応援歌」での一説「死にたくなるよ なるだけだけど」を思い出した。そうやって彼らはいつも矛盾していた。矛盾したから生に肯定的に向き合えたんだと思う。死にたくなるけどなるだけだから死にはしない。でも死なないくせに死にたいなんていっちゃだめとは思えない。なるだけだけど死にたいのは死にたいんだから、それを隠すことも臆することもない。矛盾しててもいいんだよ、という意味にもとれるのだ。

私たちは作品と人格を分離することはできない、当たり前の話だが。でもそれを十字架にすることはない。その罪深さを悔いることもない。ましてや指さされて名付けされて「それってダメじゃん」と言われる筋合いもない。開き直るんじゃない。その矛盾を愛してしまいたい。彼らを許すんじゃなくて、愛したいだけなんだ。これはたわごとできれいごとなんだろうか。厳しいまなざしと抱擁は両立できないのだろうか。悔しいのに笑っちゃいけないのだろうか。それは”共依存”なんだろうか。そうやっていろんな人のいろんな思いを既存の関係に当てはめてしまうことの危うさみたいなものを感じずにはいられない。

ラストに向けた3曲。不思議と「The Sound」がこのライブのピークではないことを悟ったし、実際そうだった。それはこのバンドがまた一つ歩みを進めたことの証であり、エモーショナルとプロフェッショナルの折衷をたゆたいながら進んでいる。The 1975はMattyだけのバンドではないことは明らかだが、Mattyの人柄や言動なしにはこのバンドに”ハマる”ことはないはずだ。どこかで惹かれ、共感し、強く心を突き動かされたから今「Give Yourself A Try」で私は涙しているのだ。それは卑怯かもしれない。弱いかもしれない。きっと弱いのだろう。

2019Summer Sonicで準トリ、2020年の中止を経て2022年でヘッドライナー。そして単独ツアー。ここに一つの幕切れを感じる。彼らは彼ら自身が大好きでバンドがだいすきだから、今すぐ散り散りになって活動するとは思えないし、また違うフェーズで帰ってきてくれるに違いない。

よく「人はみんな違ってみんないい」と言う。星野源の「ばらばら」を当時聴いて、その言葉を数年たって心から理解して未だになおその軸で生きている。でもその中で「あの世界とこの世界 重なり合ったところにたったひとつのものがあるんだ」という歌詞があったことは軽く見過ごしていた。きっとそれは結ばれた男女のことだと思っていた。でも次第に、私たちは結局ひとつなんじゃないか、とも思えてきた。ひとつだったのに、ばらばらになったから、限られたひとつのシーンを強烈に求めてしまう。それは熱狂もそうだし、心のシンクロもそうだし。その一つに巡り合える幸せのつぼみみたいなもの、もっと言えば未来の輪郭みたいなものがライブにはあって、それを欲している気もした。The 1975を好きな人たちの顔が一人ずつ浮かんで、その人たちがいかに世界をよりよくできるかを真剣に考え向き合って日々生きているのも知っていて、だからこのライブは必要だったんだと大げさにくくりたくなる。

強い意志、強い心、変わらない気持ち。どれも大変立派な志ではあるけれど、Mattyがそうであるように、弱くて多変で二重三重と姿を変えていく人間らしい様を無碍にしたくない。認めるとか認めないとかではなく、それをアーテイストだからと許容するのでもしないのでもなく、ただそこにあるひとつを確かめたいだけなんだ。それだけで、涙でいっぱいになるんだ。