あ、なんか興奮してきたな

サンドウィッチマンのコントの冒頭は伊達みきおが「あ、こんなとこに新しい〇〇(コンビニやハンバーガーショップ、カラオケなど)がある、興奮してきたな」と言ってその建物に入ることが定例化している。サンドウィッチマンのすごいところは一発ギャグじゃなくても他のコントに転用できる汎用性の高いボケを多く持つことだ。だからなぜかサンドウィッチマンのコントをみんな共有できる。「興奮してきたな」にしろ、「ちょっと何言ってるかわからない」にしろ、こうした記号が伝達に重要な役目を果たし、サンドウィッチマンのコント面白いよね、と話題になりやすくする。
そもそもなぜ伊達みきおは興奮するのだろう。漫才においても「世の中いっぱい興奮することあるけど一番興奮するのは〇〇だね」と必ず言う。人は慣れたものを好む習性があるというが、未知のものに興奮する性癖もある。新しくできたコンビニに興奮する伊達は「昨日までなかった何か」にすごく敏感だ。それはおそらく我々も同じはずだ。

さて、Base Ball Bearというバンドは、むしろ「昨日までなかった何か」を提示してこなかった人達だと思っている。青春系ギターロックバンドと銘打って(名付けられて?)十数年を駆け抜けてきた。打ち込み時代が到来してもあえてそこへのアプローチは強くせず、フィジカルな音楽の体現を試みた。

肉体的でカッコいい音を出すバンドが好きなんです。そういう意味で、日本のバンドで一番カッコいいと思ったのはNUMBER GIRLだったし、少なくとも僕が聴いてきた音楽は肉体的なものが多かった。
あと、僕のルーツはハードロックで、「ギターのテクニックだけで押しきるってカッコいい!」という感覚が原点にあるんじゃないかな(笑)。でも、演奏の凄味で魅せきるっていうのは本来的だとも思うんですよね。だから、自分が音楽をやるときも、バンドサウンド以外の音が鳴っているのは想像してなかった。

彼らの魅力ってなんだろう。と考える。自分がBase Ball Bearを一切通ってこなかったからこそ、その鬱勃とした興味心が文字になって溢れてくる。特にこのバンドはファン以外があまり語らない印象だ。実際「Base Ball Bear 嫌い」とgoogle検索しても、Twitterで検索しても、全く引っかかってこない。だれも批判しないバンド。なおの事知りたいこの正体。

売れるために女の子

数年前、まだこのブログがアメブロだった頃に「女子高生をびしょ濡れにして無表情で踊らせるな!」と憤ったことがある。日本のMVは割とpv数が上がればなんでもいいと思ってる。むしろそれこそができる大人で賢いビジネスマンだと自負すらしてる節がある。売れないバンドマンはなんとかして見てもらおうと必死になる。全くもってそれは構わないことだし否定はしないが、そういうバンドなんだって事は理解しておくし理解される必要がある。まぁ頑張って売れてから独自性出して掌返させてくれ。そうしか方法がない、ってのは痛いほどわかるから。
売れたなら構わない。売れないと悲惨だ。やりたくもないMVを作って映像監督も損だしバンドも陳腐になるしでてる女優も全然露出度に繋がらずにただ安っぽい女優でしかなくなる。全員不幸だ。だから可愛い女を黙って踊らせるならせめて売れてほしい。フレデリックでかしたぞ。

Base Ball Bearと言えば、MVが大体可愛い女出てくるってイメージがある。ファンでもないのでそれが正しいかどうかはわからないが、むしろきちんと調べるよりこういうファンでもない人間のイメージは大切だと思うのであえて検証せず偏見でいう。一番イメージが強いのは本田翼だろう。Base Ball Bearの爽快感のあるギターロックと本田翼のサイダーのようなさっぱり感は非常に親和性がある。ただ、MVを思い出そうとするとマイヘアの「真赤」と被ってごちゃごちゃになるのでとりあえず後でMV見ておくとする。

ベボベの魅力

4人組ギターロックとは本当に凡庸な編成である。声が独特でもないし歌詞がずば抜けて文学的とか暗いとかそんな事もない。ベボベの感動する歌詞!みたいなの聞いたことない。
例えばツイッターで「radwimps 歌詞」と検索すると歌詞を呟くアカウント(bot含む)が47出てくる。
一方で「Base Ball Bear 歌詞」で検索すると、1つしかない。フォロワーは1576人だ(2019年2月4日現在)。

そうか、「ベボベ 歌詞」で調べてみよう、と検索の仕方を変えてみても7つ。
やっぱり彼らの魅力は歌詞以外にあるのだろうか。

ただ、「BaseBallBear 魅力」で検索すると

また、彼らの魅力のひとつと言えば、「歌詞」。
文学的なノスタルジックな歌詞で、ダブル・トリプルミーニングにもなっている歌詞も多く、とても考えさせられる歌詞になっています。
今回は、Base Ball Bearの歌詞の魅力や奥深さをランキング形式で紹介します!

と歌詞の魅力について訴えるサイトに出会った。つまり一般的には知られていないけど、よく読めば深い歌詞!が彼らの歌詞の特徴らしい。
また、こんなサイトもある。
普段からよく見ているブログサイトなのだが、

彼らの音楽を語る上で外せないのが「普通」というフレーズだ。この世界にいつだって蔓延している「普通」。両親や学校の先生に「普通にしなさい」と怒鳴られ、クラスメイトからは「あいつは普通じゃない」という理由でいじめられる。でも、「普通」の絶対的な規定や条件は存在しない。「普通」について具体的に示された書物も、ホームページも、テレビ番組も、法律も。全部どこにも存在しない。この広い世界の中で、小さなコミュニティを形成した人々の「価値観」という曖昧で形の無いものから作り上げられた「普通」に人々は翻弄され続けている。
〈中略〉
そんな「違和感」をBase Ball Bearは歌っていた。ボーカルの小出祐介も中学時代に酷いいじめを経験したからこそだろう。(程度は違うと思うけど)共通の経験をした彼が「普通とは何?」を歌い続けている。

とふじもと氏は語っている。とても興味深い感情だ。私にとっては普通のバンドというイメージしかなかったが、むしろそれは逆で、普通という違和感を歌っているらしい。メンバーに女性がいること、それがそれなりに可愛いこと、なのにメンバーは恋愛対象じゃないことをおおっぴろげにするために「おじさん」と呼んでいる事。それは確かにいつだってどこにでもいる高校の仲良しグループのようだ。私には彼らが普通というものの違和感を抱いている、マイノリティには見えなかった。それこそが爽快系青春ギターロックバンドとしての売り方の正解なのかもしれないが。

“世の中って常に両極なことが同時にあるよね”という大前提を歌いたいんだなということに気づいたんです。つまり、曲ごとにすごくハイとか、すごくローに振り切りながら作品全体でその両極を表現するのではなくて、超フラットな状態を描きたいんだと。その結果、たどり着いたのが“普通”というすごく曖昧な世界だったんですよ。

──底なし沼みたいなね。

そう、底なし沼! まさにそうだよ。実は“普通”という感覚って、人によってあまりに違う多面的なもので、こんなに厄介な概念ってないんですよね。なのに誰もが「普通がいちばん幸せ」みたいなことを言うじゃん(笑)。そうやって、僕たちがあたりまえに捉えてきた“普通”というよくわからない感覚がいちばんヤバいと思ったんです。

──いちばんILLだと。

ILLだねえ。でも、そこには答えなんてないんだよね。だから、誰も“普通”を描写しないんですよね。大好きか大嫌いかのほうが歌いやすいから。そういう意味でもすごく厄介なテーマに手をつけてしまったなとは思ったんですけど、僕はこのアルバムで“普通”というテーマと徹底的に向き合わないと先に進めない気がしたから。

──誰も手をつけてない発明だなと思ったし?

発明みたいなところもあるけど、これは僕が最初から思ってたことなんだよね。

──言語化できなかっただけで。

うん、心のなかにずっとあった。

──ずっと“表裏一体”だと思ってたけど。

そう、それは“普通”だったんだと思って。それこそが、僕が世の中に抱いてる違和感の正体だと思った。メジャー・デビュー以降はその違和感と向き合ってきたんだけど、その正体がずっとわからなかった。その過程における揺らぎを経て、やっと揺らぎそのものが自分なんだって思えて。僕はそういう人間なんだって思ったときに“普通”っていうのが違和感の正体だったんだってわかったと。やっぱりさ、いつまでも揺らいでないで、振り切れたほうがラクなんだよね、絶対。そのピークだけを見て音楽やれたらそりゃ楽しいと思うよ。

サンドウィッチマンの興奮がある種の両極的な出来事でありそのピークだけをみていると捉えられるとすれば、Base Ball Bearはその逆に興奮しているのかもしれない。彼らにしてみれば新しくできたコンビニも昨日もあったラーメン屋もいつまでも潰れない布団屋も全てが同時多発的に起きていて、それこそが普通でその揺らぎこそが自分であり世界的な出来事であると考えているのではないだろうか。
もちろん「いつまでも潰れない布団屋」の面白さも理解はしているし全く楽しめないわけではないが、そこへのアクセスは私にとってはそんなに単純ではない。

「アンビバレントダンサー」では相反する感情という矛盾した「普通」を歌い、「ファンファーレがきこえる」では「夢」と「現実」の「極端なモノ」の狭間でもがく青年を歌っていた。「Ghost Town」は現実に引き込また「みんな」とそこから逃げ出す「僕」を描いた。「そんなに好きじゃなかった」では1番で甘すぎるほど惚れ込む愛を描き、2番でその愛が一方通行であったことを知る男をコメディカルに描いた。どれもこれも「極端なモノの間」だ。改めて僕は「極端なモノの間」とはやはり「普通」であることを再認識する。

アーティストをベストアルバムで評価するのは大変失礼な話だが、私が彼らのベストアルバム「バンドBのベスト」を聴いた時、頭からお尻まで”普通”が続くことにだれてしまった。もちろんあれはシングルの寄せ集めであり、それだけで「つまらない」と判断するのは音楽好きとしてあるまじき行為だとは承知しているが、少なくとも初心者向けにバンド自らが出した作品でありベストアルバムに収録された曲はバンドが聞いて欲しいと自信持って作っているシングル曲ばかりなので、私の感想も一つの回答として取り扱ってもらってもいいのではないかと思う。

曲ごとにすごくハイとか、すごくローに振り切りながら作品全体でその両極を表現するのではなくて、超フラットな状態を描きたいんだと。その結果、たどり着いたのが“普通”というすごく曖昧な世界だったんですよ。

とは要するに激しい曲とかバラードとか、そんな極端さよりミディアムテンポな楽曲で同時多発的な両面を表現していることになるし、一方でそれが普通だなぁと一聴して思ってしまう自分はごくごく自然なことなんだろうと思う。

新しい挑戦

でも決してBase Ball Bearを低く見積もろうなんて意図したことはない。むしろ数年前、「愛はおしゃれじゃない」で復帰したての岡村靖幸とコラボし、アイドルネッサンス結成当初から深く関わりアイドルへの楽曲提供も盛んに行うその幅広い活動は他のバンドマンとは一線を画す。去年、元チャットモンチーの福岡晃子を迎えて始動したマテリアルクラブはその期待値を遥かに超える会心の一作となっている。



フロントマン小出祐介はBase Ball Bearでのギターロックへの執着を残しつつ、サイドプロジェクトでポップスもヒップホップも実験的な要素を含む楽曲も果敢にトライしていく。言葉で”普通”への違和感を投じてきた彼が、今度は音楽で、ときには誰かの体を借りて”普通”と対峙している。それがマテリアルクラブでは「昨日までなかった何か」を作り上げることにもなっている。

しかし新作を聴くと少し違った景色が見える。
EP「ポラリス」ではドラムがボーカルを務めたりといい意味の違和感がある。そこを指摘するファンもいる。

1曲目に収録されている『試される』の作曲はギターボーカルの小出祐介とベースの関根史織の共作。
関根史織が作曲に、関わったことは今でなかった。作曲家としてはデビュー曲とも言える。
3曲目の『PARK』も小出祐介と関根史織の共作で堀之内はまた蚊帳の外である。
この曲はドラムとベースのゴリゴリの演奏に小出祐介のラップが乗っかる。
しかし、ゲストを招いたり一部分取り入れることがあっても「ラップが楽曲を構成する最重要ポイント」になったことは初めてではないだろうか。 ある意味では小出祐介のラッパーデビューである。
EPのタイトルと同名で最後に収録されている『ポラリス』でも新しい取り組みをしている。
この楽曲ではメンバー全員がボーカルを交代で担当している。ドラムの堀之内大介も歌っている。
堀之内大介が音源で歌うことは初めてだ。堀之内の歌手デビュー曲とも言える。(記事内抜粋)

初めて尽くしのこのEPはサウンド面でもメンバーの中の役割においても全員が初めてを経験している。バンドとして脱退という大きな山場を乗り越え(しかも失踪という非常に面倒なパターンで)、3人で音を鳴らすことの意味を考えざるを得なくなったとき、大きな決断も迫られたはず。やるかやらないかではなく、どうやるかだけを見据えたからこそ、普通への違和感をより一層表明できるチャンスだと捉えたのかもしれない。

普通でいられなくなった時

冒頭で歌詞が深くない、と言ったが、Base Ball Bearのファンは皆個人の青春時代や深い悩みと共に歩んできた。あいにく私には10代の頃に彼らの音楽が届くことはなかったし、彼らに救われることもなかったが、アーティストに救われる気持ちはわかるしその愛の深度はどこまでも深くなることも理解している。「普通だ」としか思えなかったバンドが、「興奮してきたな」と思えるときはその普通への脱却が自分に当てはまったときなのかもしれない。あくまでニュートラルだったバンドのアンニュートラルな出来事は、バンドの立ち位置を振り返るきっかけにもなっただろう。「Base Ball Bear 嫌い」と検索しても一件もヒットしないことが、いかにそのバンドが”普通”であるかを物語っている。当然、音楽好き全員に彼らの「普通という違和感と対峙してきた」というスタンスが理解されているわけでもないので、大半が興味ない、になるのだろう。きっとそのスタンスはそのまま理解されずにながれていく。ファンがどれだけ熱弁を振るおうがそこは変わらない。でも今私はわかる。好きでなくても興味なくても「興奮してきたな」は誰もが求める人間に備わる初期衝動だ、それは共感する。そして変わらざるを得なかったバンドが変わり始めた。ソロプロジェクトも、楽曲の共作も、ボーカルの入れ替わりも、ラップの導入も、明らかに「昨日までなかった何か」に手を出し始めた。ファンではなくても、これはBase Ball Bearの活動に期待しないはずがない。これはつまり今後彼らの音楽に興味を持つか持たないかは俄然わからなくなってきた!という事だ。