2024年はどんな一年にしたいですか?と方々で訊ねてまわるテレビがいる。テレビでなくても、こういった抱負を語る場は会社や友達同士の場でも起こる。4月から新生活が始まる人も多くなる中で、このタイミングで自分の目標を言語化して定める作業に追われるのは中々簡単なことではない。それでもそれぞれがなんとか考えうる予定から想像できる未来を想定して抱負を語る。それすら思いつかない人は「健康に」と、もっと野心のある人は「もっと給料を」なんてことも言ったりする。自分は毎年その質問に窮して「本とかたくさん読めたらいいね」みたいなあやふやでつまらない回答でお茶を濁す。

今年の目標を語る前に、去年はどうだったんだろうと振り返る必要性はある。個人ではなく社会を通して見てみると、書くのも面倒なくらいにネガティブな出来事ばかり思い浮かんでしまう。日本においては、過剰なノスタルジー消費があからさまに不景気の後押しを受け流行した。PUFFYのような姿格好でダラダラとやる気なく踊らせて歌わせるだけのCM、200年代初頭を彷彿させるアムラーや浜崎あゆみ、モー娘。といった表層的なモノマネをするCM。共通するのは、どれも極端に雑で目を覆うほどに現象と文化への解像度が低い。ジーンズ履かせてダラダラと踊ればPUFFYになるとか、記憶を曖昧にしたまま雑なアウトプットのつきはぎな時代感覚はさすがにとぼけるにも無理があり、しかしそれが通用してしまう一年だった。

「エモい」は若者の手から離れ、今や広告代理店のプレゼン資料の必須単語へと成り下がった。一時期、今泉力哉から始まった右肩上がりのフォントがエモいのスタンダードになったが、今やもっと露骨なざらついたVHS的映像とY2Kファッションの二刀流で世間を感傷的にさせようと試みる。しかし明らかにその一環だったはずの紅白歌合戦でのポケットビスケッツとブラックビスケッツの出演は、予想外に世間のノスタルジー以上の刺さり方をしてしまった。セルフラブ、セルフケア、そして自分らしく生きるというある意味普遍性のあるキャッチコピーはこの時代になり、より具体的な変容を遂げ、”自分らしく生きる”というお題目だけでなくブラックビスケッツの「タイミング」における「ズレた間の悪さもそれも君のタイミング」という多様性の容認の姿勢は25年以上経てようやく世間に意味を理解されたといってもいいだろう。

芦田愛菜が今年の漢字として「慮」を選び、ドラマ「ブラッシュアップライフ」で脚光を浴びた永尾柚乃は「大人になっても私は私で」とコメントを残した。両者にあるのは極めて優れた他者への尊重だ。奇しくもポケットビスケッツが「YELLOW YELLOW HAPPY」で「すべては私が私でいるために」と歌ったこととリンクする。そしてこの曲が収録されたアルバムのタイトルは「カラフル」。ボーダレスと謳われた紅白歌合戦で、今まで散々レインボーフラッグやドラァグクイーンを起用してきたMISIAがまるで紅と白の男女で分けていながらボーダレスと謳う紅白歌合戦の矛盾に牙を向くように真っ赤な衣装に身に纏ったこととは対照的だったし、結果的にこの二組がハイライトになっていたことは私の中では揺るがない。

今この記事を書いているのは3が日も終わった平日のカフェ。非日常が繰り返されてもやっぱり平穏は平穏のまま保たれて自分のことを粛々とこなす人たち。自分ももちろんそうだが、今年の目標って、自分だけの目標ってことにしていなかったっけ、と疑う姿勢は大切だ。自分が幸せでいることが最低限の社会貢献であることは間違いないが、もう少し視野を広げたい。それは音楽に教わったことだしそうであることを伝える必要性もあると思っている。