不倫が悪かどうかなんか、当事者同士で決める者である。

というのが私のスタンスであり、だからこぞって不倫した芸能人を「許せない」と憤る街角インタビューに答える街の人や「不倫は許されることではないけど」と枕詞をつけて同業者をなんとか庇おうとする姑息な昼の司会者も、自分にとってはよくわからないことなのだ。一般的には許されない事なのかもしれないけれど、それは多くの人の価値観に基づく一般論であって、その芸能人にも通用するかどうかはまた話は別である。(そういえば過去に「不倫がばれたあなたに贈りたい8曲」なんて記事も書いていたりした。)



アンジャッシュの渡部も同じであろう。彼が許されるかどうかは佐々木希次第である。「それも芸の肥やしよ」なんて言って笑ってしまうのなら渡部の罪は許される。それが特に問題だとも思わない。

とまあどうでもいい話から入ったが、本筋はそこではない。
そんな渡部が先日文春のインタビューに応え「今でも妻を愛している」と言い放った。そして案の定多くの声がその発言に疑問を呈した。「嘘つけ」が横行してしまうのは何も不思議な話ではなく、散々色々とやらかした後に「でも妻を愛している」と言われて素直に信じる人は少ない。それが信用の崩壊であり、絆の断裁である。そこを修復するのは容易でない。



ただ、よくよく考えればそれって真実は知る由もないものであることに気付く。渡部が何度「愛している」と言われても佐々木希が信じられないと憤るならともかく、会ったことも話したこともない人の発言を、「そんなはずがない」と断定できる要素など持ち合わせていないはずだ。渡部が不倫しながら佐々木希を愛することはできるかもしれない。できないとの見方が一般的ではあるが、あくまで一般論であり、渡部には可能だったのかもしれない。

そんな風に、人は決めつけをよく行うんだけど、そんなこと本人にしかわかりえない事じゃないかってことはよくある。

例えば推しがたくさんいる人の「尊い」という発言に対し、「そんなに推しをたくさん一度に愛せるはずがない」と思ったって、もしかしたら本当にその人は同じ熱量だけをたくさんの推しに注げるかもしれない。

結局「愛している」も「尊い」も個人の主観であり、そこを否かどうかで判断することは第三者にはできない。推し量るスケールはたくさん持っていて、そこから推察することはできても、本質的にはわからないがアンサーである。
グッズを買い占めている事実は推しへの熱量を図る一つの指標にはなるが、グッズを持っていないことが推しへの熱量が無いことへの証左にはならない。ライブに通い詰めることは確かにものすごい熱量だが、ライブに通いつめないことが熱量が少ないと決めつけることはできない。

自分もあまり所有欲がなく、サインが欲しいとかライブは最前線で見たいとか、出待ちしたいとか思わない。もちろん、事実それほど熱量が他の熱烈なファンよりも少ないことは認めるが、かといってそれを理由に決められたくもないなあと思わなくもない。

と、散々語ったのだが、結論その「一般論では考えにくいけどたしかにそうなんだ」に当たる主張は人に信じられてこそ成り立つものだし、それを受け入れてもらうにはそれ相応の行動と信頼を勝ち取らないと始まらない。なので決して渡部の言うことを信じてあげるべきなどと言いたいわけではない。

単純に人の言葉をうのみにするのも危険だけど、勝手に断定しちゃうのもそれはそれで難しいところだよね、なんて思ったりするという話なだけだ。